田中絹代
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1968年に郷里・下関赤間神宮で、「明治百年記念」と題して開催された先帝祭で「禿(かむろ)」に扮し、同郷の女優・木暮実千代と共に特別出演した[2][13][注釈 10]1970年(昭和45年)、NHK大河ドラマの『樅ノ木は残った』に出演。以降はテレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役や連続テレビ小説雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれた。また、1970年に紫綬褒章を受章。

1974年(昭和49年)、熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷』で元からゆきさんの老婆を演じ、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞芸術選奨文部大臣賞などを受賞した。1975年3月、日本経済新聞の『私の履歴書』の欄に田中の半生などが1ヵ月間に渡って掲載された。それまで神秘のベールに包まれてきた日本を代表する女優の半生が、初めて本人の言葉で明かされ[注釈 11]、読者から大きな反響を呼んだ[2]
死去

最晩年、借金を抱えて困窮していた田中の面倒は唯一の親戚である[15][16] 小林正樹監督が看ていた。

1977年(昭和52年)1月12日に強度の頭痛に襲われて順天堂病院に緊急入院し、脳腫瘍と診断された数日後には視力を失った。3月21日午後2時15分に脳腫瘍の悪化により死去[17][1]。享年67。入院中の田中は、見舞いに来た小林に「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と言い、女優復帰を願っていたが叶わなかった[2]

遺作はテレビドラマ『前略おふくろ様』[注釈 12]。生涯で約260本の映画に出演した。同年3月31日築地本願寺で映画放送人葬が行われ、又従弟小林正樹が喪主、城戸四郎が葬儀委員長を務めた[18]弔辞は日本監督協会理事長の五所平之助のほか高峰三枝子が行った。映画放送業界の約400人、ファン約3千人が参列[19][注釈 13]し、みな焼香台の上に100円玉を置いていったという[21]法名は迦陵院釋尼絹芳。

生前「死んだら、母の眠る下関で眠りたい」と希望していた[15]ことから、墓所は下関市の下関中央霊園にある。また、1979年(昭和54年)の三回忌では小林正樹によって、神奈川県鎌倉市円覚寺にも墓が建立されて分骨された[注釈 14]
没後

1985年(昭和60年)、小林により毎日映画コンクールに「田中絹代賞」が創設され、映画界の発展に貢献した女優に贈られることとなった。第1回受賞者は吉永小百合

1986年(昭和61年)、新藤兼人が『小説 田中絹代』を週刊読売に連載し、翌1987年(昭和62年)にこれを原作に、市川崑監督・吉永小百合主演で『映画女優』として映画化された[1]

1987年(昭和62年)、下関市民の間で本格的な顕彰活動が始まる[20]。下関などのファンにより毎年、命日である3月21日に「花嵐忌(からんき)」と名付けられた[注釈 15]市民墓参会が下関中央霊園(下関市井田)で開かれる。また同日に田中絹代ぶんか館で出演映画の上映が開催されるようになった[15]

2000年(平成12年)、『キネマ旬報』発表の「20世紀の映画スター」で、著名人選出日本人女優部門で第5位、読者選出日本人女優部門で第4位にランクインされた。また、2014年(平成26年)には同誌の「オールタイム・ベスト日本映画男優・女優」女優部門で第8位にランクインされている[23]

2009年(平成21年)、生誕100周年となるこの年に上映会をはじめとするさまざまな催しが行なわれた。松竹は、絹代生誕100周年を記念する「絹100%プロジェクト」[24] として、作品の上映会・DVD発売・CS放送ネット配信など各種イベントなどを開催。東京国立近代美術館フィルムセンターでは、9月4日から12月20日の約4か月間わたって企画展「生誕百年 映画女優 田中絹代」で遺品や関連資料を展示。同館は10月6日から11月15日11月17日から12月27日の約3か月にわたって大規模な特集上映「生誕百年 映画女優 田中絹代(1)、(2)」で出演作および監督作計97作品を上映した。第10回東京フィルメックス映画祭では、「ニッポン★モダン1930 ?もう一つの映画黄金期?」として田中絹代出演作を中心に特集上映し、特に生誕100年に当たる11月29日には「絹代DAY」として代表作を上映した。このほかにも、各地で特集上映会が催された。下関市立近代先人顕彰館
(田中絹代ぶんか館)

2010年(平成22年)、下関市の旧逓信省下関電信局電話課庁舎の建物に下関市立近代先人顕彰館(田中絹代ぶんか館)がオープン。セレモニーには松坂慶子奥田瑛二安倍晋三らが出席した。
人物・エピソード
生い立ち

1909年11月、田中家の庭で家族で歳末の餅つきをしていた所、ヤスが産気づいてその後田中を出産した。これにちなんで田中は、「絹餅のような白い肌になってほしい」との願いから“絹代”と名付けられた[2]。当時、母の実家・小林家は平家の末裔とされる[2]下関の大地主で、廻船問屋を営んでいた[25]。久米吉はそこの大番頭であったが、絹代が生まれた頃には呉服商を営み、貸し家を20軒も持っていた[4]

幼くして父を亡くした後、母は藤表製造業を営んでいたが、使用人に有り金を持ち逃げされるなどの災難に遭い、一家の生活は徐々に暗転していく[1]。田中が6歳の頃、母が共同出資していた実家の兄・小林保太郎の造船事業が次々と失敗したため両家とも倒産してしまう[4]。子供の頃は体が弱かったのか、1916年4月に下関市立王江尋常小学校に入学するが、直後にはしかに罹りほとんど出席しないまま1学期を終えてしまう[4]。また、同年9月には家族で大阪に移住するが、今度は肺炎に罹り1年半療養生活を送った[4]

さらに不幸は続き、田中の尋常小学校入学後、20歳の長兄・慶介が兵役忌避をして失踪[25]したことで一家は後ろ指を指されることになる。上記の田中が肺炎で療養生活をしていた頃に、華厳滝で投身自殺を図った次兄が肺炎で死亡[26]


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