田中絹代
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続いて同年公開の清水宏監督『村の牧場』では早くも主役に抜擢された[3]

1925年(大正14年)は清水監督作品2作に助演後、6月の撮影所閉鎖によって松竹蒲田撮影所に移籍[2]島津保次郎監督の喜活劇『勇敢なる恋』で中浜一三の妹役に抜擢され、以来島津監督の『自然は裁く』『お坊ちゃん』、清水監督の『妖刀』、野村監督の『カラボタン』などに下町娘、村娘、お嬢さん、芸者など、うぶな娘役で出演、時に準主演級の役もついた[4]

1927年(昭和2年)、五所平之助監督の『恥しい夢』で芸者役で主演するとこれが出世作となり、同年7月に17歳で準幹部に昇格[注釈 3][7][8]。同年、池田義信監督の映画『真珠夫人』で子供の頃からの憧れだった栗島すみ子と初共演を果たす[2]

1928年(昭和3年)からは牛原虚彦監督・鈴木傳明主演の『彼と田園』『陸の王者』などの青春映画で鈴木の相手役として出演。この年だけでも16本もの作品に出演し、早くも蒲田の大スター・栗島すみ子に迫る人気スターとなり、1929年(昭和4年)1月には幹部に昇進した[4]。この年も牛原・伝明とのトリオで『彼と人生』『大都会 労働篇』に出演したほか、小津安二郎監督の初期作品である映画『大学は出たけれど』では可憐な娘を好演。「明るくあたたかく未来をみつめる」という蒲田映画のシンボル的イメージを確立し、栗島を抜いて松竹蒲田の看板スターとなった[4][9]
トーキー映画の時代へ

1931年(昭和6年)、五所監督による日本初の本格的トーキー映画[注釈 4]マダムと女房』に主演し[注釈 5]、その甘ったるい声で全国の映画ファンを魅了した。また同作で抜群の記憶力と勘の良さで自在にセリフを操った絹代は、それ以降サイレント映画の主役たちに取って代わるようになる[2]1932年(昭和7年)、野村監督の『金色夜叉』で下加茂の大スター林長二郎と共演、二人による貫一・お宮で評判を呼び、どこの劇場も満員札止めの大盛況となる[4]ほどの人気作となった。ほか、五所監督『伊豆の踊子』『人生のお荷物』、島津監督『春琴抄 お琴と佐助』などに主演していき、トーキー時代も蒲田の看板スターとして在り続けた。1933年(昭和8年)1月に大幹部待遇[10]1935年(昭和10年)に大幹部となった[2]

1936年(昭和11年)1月15日に撮影所が蒲田から大船に移転してからも、松竹三羽烏上原謙佐野周二佐分利信らを相手役として、次々と作品でヒロインを演じた。特に1938年(昭和13年)に上原と共演した野村浩将監督のメロドラマ愛染かつら』は空前の大ヒットを記録し、その後4本の続編が製作された[3][1]。一部マスコミでは、「“田中絹代”という女優を日本中の誰もが知るようになったのは、『愛染かつら』シリーズに出演してから」と位置づけられている[2]1940年(昭和15年)には溝口健二監督の『浪花女』に主演し、溝口監督の厳しい注文に応え、自らも演技に自信を深めた。
戦後の活躍おかあさん』(1952年)右。左は香川京子

戦後は引き続き松竹の看板女優として主役の座を守り続け、それまで清純派として活躍していたが、溝口監督の『夜の女たち』や小津監督の『風の中の牝鶏』では汚れ役に挑戦して新境地を開拓[2]1947年(昭和22年)と1948年(昭和23年)に毎日映画コンクール女優演技賞を受賞。

この受賞により1949年(昭和24年)10月、戦後初の日米親善使節に指名され、これを機に松竹を退社して[4]渡米し、約3ヵ月間を現地で過ごす。しかし翌1950年1月に帰国すると田中の出発時との見た目の変わりようや振る舞いが原因で、多くのメディアやファンにより大バッシングが巻き起こる(後述)。数ヶ月間鎌倉で静養した後、同年の夏頃に新東宝で小津監督の『宗方姉妹』に出演することになり、同時に木下惠介監督の『婚約指環』を撮影[注釈 6]。しかし両作とも不評で、とくに後者は三船敏郎と恋人役を演じたが、それが「老醜」とまで酷評[11]された。

この女優としてのピンチを救ったのが、田中と同じくスランプに遭っていた溝口監督で、彼女は1952年(昭和27年)の『西鶴一代女』に主演。田中はお春役として御殿女中から様々な運命をたどり、ついには街娼となって老醜をさらけ出す[注釈 7]という女の一生を演じる。


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