田中眞紀子
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1996年10月の第41回衆議院議員総選挙では新潟5区から自民党公認で立候補。新進党の公認を得た現職の星野行男らを破り、再選を果たす。

2001年小泉純一郎首相誕生に際しては、総裁選での応援を買って出るなど大きく寄与し、女性初外務大臣に就任した。外相在任後、様々な騒動を起こした[7]
外相更迭と議員辞職・自民党離党

ターニングポイントとなったのが、事務方との対立に起因する、2002年1月30日の外相更迭であった。当時は世論の圧倒的多数が更迭に反対して田中を支持、小泉内閣の支持率が一時的に急落するほどであった(読売新聞では下げ幅が30.7%に及んだ)。

2002年春に、秘書給与流用疑惑が報道された[8]。同年8月9日、自身の公設秘書給与の流用疑惑の責任を取る形で、議員辞職[9][10]

2003年に自民党離党[11]。同年11月の第43回衆議院議員総選挙無所属で当選し、国政へ復帰[8]。民主党の院内会派「民主党・無所属クラブ」に加入した。今度は以前に所属していた自民党に対して厳しい批判を繰り返すようになった。
民主党入り

衆院選を目前に控えた2009年8月15日、新潟県長岡市内で記者会見し、夫の田中直紀参議院議員とともに民主党入りを表明。鳩山由紀夫代表と三人での記者会見であったものの、14日に入党手続き自体をすませていた。田中らの入党は、小沢一郎代表代行らが民主党本部へ依頼していた[11]。民主党入りの理由について「確実に二大政党(の時代)になる。有権者に約束してきたことを実現するためには、組織に所属しなければならない」と述べ、選挙後の入党という選択肢については「それでは有権者に対して失礼」と否定した。鳩山由紀夫民主党代表は「夫婦そろっての民主党入党を心から歓迎する」と述べた[12][13]

同年9月の鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、衆議院文部科学委員長に就任。2011年6月の菅内閣不信任決議案(菅おろし)で党議拘束に違反して棄権したため、民主党執行部から3か月の党員資格停止処分が下された。なお、国会の役職については解任しない旨が民主党執行部から通達されたため、衆院文部科学委員長の職には留まった。党員資格が停止されたため、2011年民主党代表選挙では投票権が与えられなかった。同年9月の野田内閣の成立に伴い、衆議院外務委員長に就任。

2012年6月26日消費税増税法案には、小沢一郎鳩山由紀夫らが反対票を投じ、小沢は自身のグループに所属する議員の大半を率いて離党、国民の生活が第一を結党したのに対し、田中は賛成票を投じ、造反の動きに同調しなかった。以前から田中は「反・野田」のスタンスに軸足を置いていたが、2012年9月民主党代表選挙では一転して野田首相の再選を支持し、野田陣営に参加している。同年10月、野田第3次改造内閣文部科学大臣に任命され、2001年に発足した第1次小泉内閣以来、約11年ぶりに3度目の入閣を果たした。

同年11月、2013年春に新規開校を予定していた大学3校の不認可を示唆。3大学は、文部科学省の諮問機関である大学設置・学校法人審議会の認可を受けており、文部科学大臣が審議会の判断を覆すのは極めて異例で、田中は不認可の理由について「大学が多すぎ、質が低下している」と説明したことから[14]、関係各所を巻き込んだ騒動に発展。この3校以外に同時期に認可の申請が出された既設大学の16学部、13の大学院を認可したことに続き、結局、文部科学省は11月8日、新規3校についても正式に認可した[15]
落選

しかしこれまでの一連の政治活動の流れ、また下記のような誹謗中傷的な発言・行動から、角栄に恩義を感じ尽力していた者達からも段々と見限られていく。現職閣僚として挑んだ2012年12月16日第46回衆議院議員総選挙では、強固な地盤だった新潟5区で自民党の長島忠美に3万票近い差をつけられ比例復活もならず落選した。民主党大敗の象徴や「田中王国」の崩壊と取り上げられた。皮肉にも父・角栄の死去から丁度19年になる命日での出来事であった[16]。12月26日、内閣総辞職により、文部科学大臣を退任。

2014年12月に行われた第47回衆議院議員総選挙では新潟5区の民主党公認候補に内定していたが、「仕事の状況を鑑みて立候補は難しい」として立候補を見送った[17]。また、長島の死去に伴い2017年10月に予定された新潟5区補欠選挙へ立候補が取り沙汰されたが、最終的に立候補せず事実上政界を引退した形となっている。

2022年春の叙勲で夫・直紀と共に旭日大綬章を受章[18][19][20]

2024年1月8日、旧田中角栄邸から出火し、2階建ての住宅延べ約800平方メートルが全焼。南側の雑木林なども焼けた。田中は電話取材に「ぜんぶまる焦げ。私がお仏壇にお線香をあげて消し忘れた。(火災を)発見したのも私」と答えた。夫・直紀とともに無事だという[21]
越後交通グループとの関係・役職

新潟県中越地方の会社、越後交通グループのオーナーでもある。眞紀子の選挙においては、バス会社である越後交通の各営業所は、選挙の情報収集や票固めと言った役割を果たすことになる。これらは、父の角栄が築いたものであり眞紀子はそれを継承した。なお、同社では角栄を「大先生」と呼んでおり[22]、営業所に写真も掲げられているという[23]。詳細は「越山会#概要」を参照

2022年(令和4年)6月には、グループ社長が夫の田中直紀から伊比久となった。直紀は代表権のある会長へと昇進し、代わりに会長だった真紀子は代表権のある相談役となった[2]
他政治家や角栄秘書らとの関係

眞紀子の人の好き嫌いは、父の角栄の存在の影響が非常に大きく、父を裏切った竹下登旧経世会(竹下派)に連なる人間を憎んでいるとされる[注釈 2]。無所属時代に統一会派を組み、在籍していた民主党の議員に対してすら攻撃することがある[24]

父との関係が比較的悪くなかった小沢一郎には好意的で、小沢が民主党代表だった時は「小沢氏を首相にする」と支援姿勢を鮮明にしていた[25]2010年9月の民主党代表選挙でも小沢への支持を公言し、積極的に支援している[26]。しかし2012年7月、小沢が民主党を離党して新党「国民の生活が第一」を結成した際には、党首への就任含みで参加するよう誘われたものの、眞紀子は民主党にとどまった[27]

また、父・角栄らとの秘書らとも仲がわるい。特に大蔵大臣時代からの秘書だった政務秘書早坂茂三、「田中角栄の金庫番」と言われた政治家秘書佐藤昭子とも折り合いが悪く、角栄が脳梗塞で入院した際「(縁のある)東京逓信病院に入院させましょう」と発言した早坂に対して、眞紀子は「病院の看護婦や医師は創価学会員や共産党員が多いから、病状が公明党や日本共産党へ(父の病状が)漏れる可能性もある」と違う病院へ入院させるよう要請した。しかし、眞紀子の要望は受け入れられず、角栄は東京逓信病院へ入院となった。入院から数日後に、真紀子は早坂と佐藤を田中事務所から解雇した[28]

父の角栄が病に伏せているのに、目白の邸宅に金銭をせびりにきた県議会議員からタカを受けている場面に遭遇した過去に触れ、 2023年12月に日本国の地方議員数を減らすべきと批判している[29][30]


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