田中友幸
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三船プロダクションの設立と運営にも森岩雄藤本真澄川喜多長政らと大きく尽力した[16]

没後に製作された『モスラ3 キングギドラ来襲』(1998年)の劇中に、主人公の祖父の肖像として田中の写真が飾られている[17]
ゴジラシリーズについて

ゴジラの生みの親として紹介されるのは円谷英二であることが多いが、一般に知られているゴジラの基本設定を思いつき、実際の企画を立ち上げたのは田中である[出典 10][注釈 3]。田中は、映画『キング・コング』を観て特撮の可能性を感じ『ゴジラ』のような映画を目指すようになったといい、世界的なキャラクターを創造できたことは自身の誇りであると述べている[11]。田中はこのことに強い自負を抱いていたらしく、キネマ旬報誌上[要文献特定詳細情報]で北島明弘が執筆したゴジラ関連記事に自分への言及がないことに不満を抱いて呼び出し、インタビューを掲載させたこともある[注釈 4]

メカゴジラの逆襲』(1975年)でゴジラシリーズが一旦終了した後も、田中が陣頭に立ってゴジラ復活へ向けた活動を行い[14][20]、『ゴジラ』(1984年)を実現させるに至った[21]

『ゴジラ』(1984年版)では、9年ぶりに復活するゴジラであることから特に力を入れていたといい、原案として脚本作業に直接意見を行ったり、撮影でも現場で直接指示をしたりするなどしていた[出典 11]。制作協力の田中文雄は、人生最後の作品であるかのように情熱を傾け、自身の怪獣映画の総決算のようであったと評している[22]。また、監督の橋本幸治は、田中がゴジラを侮辱するようなセリフに憤っていたことに際し、田中は自身とゴジラを重ね合わせているのだと解釈している[23]。一方で、同作品がゴジラ復活を求めていたファンからの評価が芳しくなかったことについては重く受け止め、次作『ゴジラvsビオランテ』(1989年)ではストーリーの公募を行い、バイオテクノロジーの設定を取り入れるなどハリウッド映画のようなエンターテイメント性を重視し、スタッフの世代交代も図るなど、新たな要素を精力的に取り入れていった[24]

ゴジラを通じて核問題を描くことも重視しており、『ゴジラ』(1984年版)ではスタッフの反対を押し切ってゴジラが原子力発電所を襲撃するシーンを盛り込んだほか[22]、『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)では日本企業が原子力潜水艦を用いてゴジラを誕生させるという展開を強く反対した[25][26]。特技監督の中野昭慶は、ゴジラから核の要素を外すことを提案したところ、田中は「核の申し子」であることがゴジラのテーマだと述べたことを証言している[27]。一方で、『vsキングギドラ』では水爆実験でゴジラが誕生する瞬間を描くことにも反対しており、東宝プロデューサーの富山省吾によればエンターテイメントとしてどこまで踏み込むべきか田中は懸念していたといい、映画のテーマは隠すという美学の持ち主でもあったと述べている[28]

『vsビオランテ』の監督を務めた大森一樹は、田中は高齢ながら自身で決めて動いて映画を作っているという姿勢であり、「ゴジラとは私だ」という田中の意志を強く感じていたといい、事実上同作品が田中の最後のゴジラ映画であったと語っている[29]。完成後に田中から握手を求められ「ありがとう」と言われ、大森はすごい仕事をしたのだと実感したと述懐している[30]

富山によれば、『vsビオランテ』では特技監督の川北紘一による改訂脚本もあったとされるが、田中は「円谷にもやらせなかったことは川北にやらせない」として、特撮監督が脚本を書くことを受け入れなかったという[30]。大森は、田中がプロデューサーとして目を光らせ自身と川北をうまくコントロールしていたと述懐している[29]

ゴジラを自分の息子とも称しており、『vsキングギドラ』でのインタビューでは「ゴジラだけは誰にも作らせられないし、作らせたくない」とも述べていた[3]。しかし、『vsキングギドラ』以降は、田中の体調の問題があり、プロデューサー業務は富山省吾に比重が置かれていった[31][注釈 5]。1992年の『ゴジラvsモスラ』からは広尾の自宅でリハビリ療養をとりながら東宝スタジオへ視察する形となり、打ち合わせは富山と林芳信社長が自宅へ訪問してやる形となった[33]。平成ゴジラVSシリーズの最終作にして、田中が携わった最後のゴジラ作品でもある『ゴジラvsデストロイア』(1995年)では、ゴジラを死なせることを了承しつつ、シリーズ自体は継続できるような結末とすることを要望したという[出典 12]

1998年に公開された『GODZILLA』のエンドクレジットの最後には、「田中友幸の思い出に捧ぐ」という一文が記されている。
人物

その硬派で一貫した作品群、上記のインタビューのような強気なエピソード、三菱創価学会とも太いパイプを築き東宝グループ製作部門に君臨した晩年のポジションなどから、強面なイメージで語られることも多いが、実際は柔和で温厚な調整型の人物であったとされる。試写でまずいところがあると、隣席の監督をつねってくるなど、お茶目な面もあった。なお、1970年代後半には本社の専務取締役である西野一夫が社長を兼ねる東宝映像の会長をつとめるなど、藤本引退後は年齢もあって本社役員陣の上手に立つ長老として遇されながらも、森、藤本[注釈 6]とは異なって一度も本社取締役には就かなかった。そのため、本体中枢入りと引き換えにプロデューサーの肩書きを外さざるを得なかった彼ら[注釈 7]と違って、終生製作部隊である株式会社東宝映画を膝下に抱え、オーナー型でさえ海外にも類のない、86歳まで切れ目なく作品を発表するという映画プロデューサー人生を、しかもサラリーマン型でまっとうすることとなった[注釈 8]

ゴジラ委員会委員長を務めた東宝の堀内實三は、田中について熱心でしつこい人物であったと評しており、時間を問わず電話をかけてきて既に会議した内容について何度も話すことも多かったという[6]。また、田中は特にゴジラに対して思い入れが深かったと述べている[6]

暁の追跡』で初めて田中と組んだ映画監督市川崑は、「あの人は若いころから、”田中牛五郎”なんて言われるくらい、粘り屋で有名だったんですよ」と、後年の取材で証言している。『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』で再び田中と組んだ際、主役の起用に関して、大谷友右衛門を推したい田中が突然、市川監督の自宅にやって来て話し合いを始めたが、元々池部良主演で映画化を進めていた市川との間で折り合いがつかず、挙句の果てに応接間のソファーに平然と横になって粘る態度を見せ始めたため、最初は妻の和田夏十の助言もあって断るつもりでいた市川も、ついに根負けして大友を起用するに至った逸話を持つ[36]

中野は、田中は勉強家で、新聞を全紙とっており、自宅には週刊誌が積み重ねられており、それらからアイデアを得た記事を破り取って持ち歩いていたと証言している[37]。時には百科事典を破り取っていたこともあったという[37]。また、田中は円谷英二に次ぐ粘り強さを持っていたといい、藤本に企画の許可を求めた際には、寝入った藤本のベッドの横で待ち続けていたこともあった[37]

撮影現場では、プライベートで撮影風景を8ミリカメラに収めており、モノクロ映画である『用心棒』のカラーメイキングや、カットとなりフィルムが現存しないとされる『モスラ』の九州ロケの様子など、貴重な映像も残されている[38]。田中の死後、これらのフィルムはカメラマンであった古山正が保管している[38]

中野は、田中が正面からの正義のドラマ作りを好んでおり、また破壊描写も好み、画面が派手であれば喜んでいたと証言している[27]

戦争映画では『連合艦隊』(1981年)が自身の集大成であると語っており、同作品とゴジラ映画が自身の双璧であると述べている[3]
博覧会とのかかわり

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