1927年(昭和2年)3月24日、?介石ら国民革命軍は南京に入城し、外国領事館を襲撃する南京事件が発生する。この南京事件はのちにコミンテルンのミハイル・ボロディンらによる工作であると判明する[6]が、同年4月3日には日本人居留民が襲撃される漢口事件が発生した。こうした事件を受けて幣原喜重郎外相の協調路線は軟弱であると批判され、1927年4月20日に田中義一政友会内閣が成立。田中は対中外交を積極方針へと転じ、5月末から6月にかけて居留民保護のために山東出兵を行った。
6月27日から7月7日にかけて外務省・軍関係者・中国駐在の公使・総領事などを集めた対中政策についての東方会議が東京で行われた。これは田中内閣のもとで外務次官となった森恪が実質的に組織した。森は満蒙政策強硬論者であり、遼寧省・吉林省・黒竜江省の東三省を中国から分離する方針が反映したものであった。7月7日に「対支政策要綱
」が発表された。要綱では、自衛を理由に武力行使を辞さないこと(第五条)、日本は東三省、満蒙に「特殊地位」があること(第七条)、動乱が満蒙に波及した場合は「適当の措置に出づるの覚悟あるを要す」とあった(第八条)。日本軍による山東出兵が行なわれるなか、日本軍の進出に対して北京政府直隷派の周蔭人らは青島奪還を計画。他方、北京政府奉天派張宗昌はこれを討伐しようとした。しかし中国では山東出兵は中国主権を剥奪する侵略的野心を蔵するものと解され、特に奉天において、「東方会議の結果および田中内閣の満蒙積極政策反対」のスローガンをかかげた反日運動が行われた[7]。
その後、1928年には済南事件、張作霖爆殺事件が起こり、1929年(昭和4年)7月に田中内閣は張作霖爆殺事件の責任者処分に絡んで総辞職した。同年9月に田中は死去している。 このような時代背景の中、田中上奏文が作成されたが、いつから流布していたのかは不明である。 日本政府は1929年(昭和4年)9月に田中義一が上奏したという国策案なるものを入手、それを中国政府が第3回太平洋会議(京都会議)に提出しようとしているという情報をつかんだ。 しかし、外務省亜細亜局長 田中上奏文が中国をはじめ一般に知られたのは、1929年12月、南京で発行されていた月刊誌『時事月報』に、中国文で『田中義一上日皇之奏章』が発表されたことによる。しかし、その数か月前から日中の外交関係者の間で、その存在が知られていたという。 『時事月報』の序文は、明治天皇の遺訓が、第一に台湾掠奪・第二に韓国併合・第三に満蒙掠奪であり、現在は第三期で、現に、政治的進取・経済的侵略・人口的移植が上奏文に従って行われつつあるとして警鐘を鳴らしている[9]。田中上奏文は、その後、東三省を中心に流布した。 1930年(昭和5年)1月18日、石射猪太郎吉林省総領事は幣原外務大臣と南京の公使に対して、『時事月報』に掲載された「田中義一の上奏文」と題する長文の「排日記事」が吉林で一部人士にセンセイションを起こし、単行本の計画があるらしいこと、奉天方面では既に配布されたとの噂があることを電報で報じた[10]。 2月9日、重光葵公使は、中国国民政府外交部部長王正廷と会見し「田中上奏文」が事実無根として取締まることを要請した。王は4月11日に「出来る丈け取締をなすべし尤も冊子の発売を禁止するが如きは事実上仲々徹底せざる憾ある」から、むしろ「貴方公文中の説明を適宜発表し一般の誤解を解く様にしては如何」と答え[11]、4月12日には機関紙『中央日報』で「田中上奏文」の誤りを報じた[2][12]。当初、中国政府も偽書であると認識していた[2]。 1930年6月、日華倶楽部 日華倶楽部によれば、同じ内容の文書が、『日本侵略満蒙政策』、『節訳田中内閣対満蒙積極瀬策奏章』などという題名で流布したほか、英字新聞にも掲載されたという。しかし、日本ではこの田中上奏文に対して反響は少なかった。 田中上奏文は10種類もの中国語版が出版され、組織的に中国で流布され、また1931年には上海の英語雑誌『チャイナ・クリティク』に英語版「タナカ・メモリアル」が掲載され、同内容の小冊子が欧米や東南アジアに配布された[2]。
文書の出現と流布
日本政府による文書の認知
南京での中国語での雑誌発表
日中政府の対応
日華倶楽部による日本語訳
英語版、コミンテルンによる流布
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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