しかし、いずれの説も原文がどのように入手されたかを述べるが、原文の作成者の解明には、あまり結びつかない。 秦の王家髏烽ナは、原文が「某政党」関係者宅から流出したとしているが、いかなる性質の文書であったのかは書かれていない。 原文が日本人の手になることは、当時、外交の場で田中上奏文に接した重光葵、石射猪太郎、松岡洋右などの見解であるが、この中で、松岡洋右は国際連盟で次のように発言している。「私はその記録が北平に於ける或公使館附陸軍武官によつて、或支那人の黙認のもとに造り上げられたものであると信じ得る報告を前にしてゐる...後に私は確實に信頼し得る方面から、或日本人が、東京会議に於ける日本の参加者側の行動計画を含むと称する秘密の報導の報告を起草したと言ふことを知つたのであり、今日までそれが眞相であることに些少の疑も有して居ない。その記録は支那人に五〇、〇〇〇弗で買はれた。」 公使館附陸軍武官ではなかったが、東方会議のために報告書を書いたという人物が存在する。それは、参謀本部作戦課
鈴木貞一の「談話」説
「談話」によると、森の依頼を受け、東方会議のために河本大作や石原莞爾らと相談して積極的な満蒙政策の案を書いた。「その案といふのは、方針だけいふと、満洲を支那本土から切り離して、さうして別個の土地区画にして、その土地、地域に日本の政治的勢力を入れる。さうして東洋平和の基礎にする」というものであった。しかし、ちょうど東京に来ていた奉天総領事・吉田茂に相談したところ、アメリカに「グウの音」も言わせないようにする必要があるとし、「アメリカのことは斎藤がよく知つてゐる。しかし、かういふ考を剥き出しに出したのでは、内閣ばかりでなしに、元老、重臣、皆承諾しさうもないから、これを一つオブラートに包まなければならぬ。どういふオブラートに包むか。それを斎藤と相談しよう」と、吉田は、ちょうど帰国中であったニューヨーク総領事斎藤博を紹介したので、斎藤が書き改めて案を作ったという[30]。 当時の外交に関った人物達が田中上奏文に対しどのように述べているかを紹介する。 重光葵:中国代理公使当時、中国政府に田中上奏文の取締まり要請をした。 (要約)日本軍部の極端論者の意見が書き変えられたもの。日本の行動は、あたかも田中上奏文を教科書として進められたような状態となった。 然し恐らく、日本軍部の極端論者の中には、これに類似した計画を蔵したものがあって、これら無責任なるものの意見書なるものが何人かの手に渡り、この種の文書として書き変えられ、宣伝に利用されたもの、と思われる。要するに田中覚書なるものは、左右両極端分子の合作になったものと見て差し支えない。而して、その後、に発生した東亜の事態と、これに伴う日本の行動とは、恰[あたか]も田中覚書を教科書として進められたような状態となったので、この文書に対する外国の疑惑は拭い去ることが困難となった[31]。 (要約)後日の巷説によると、一日本人が書きおろし、数万円で中国側に売り込んだもの。満州事変?太平洋戦争において、この創作が殆どその筋書き通りに実演された。 会議は私の関するところではなかったが、私はその経過の大様を聞知していた。私の知る限り、東方会議は、田中上奏文にあるような、とてつもない大陸侵略計画を評議したものではなく、この上奏文は、確かに誰かの創作であった。しかもすばらしい傑作であった。後日の巷説によると、一日本人が書きおろし、数万円で中国側に売り込んだものだとの説であった。 日本においては、戦後も有力な偽書否定といえるまでの論はなく、児島襄『日中戦争1』、秦郁彦『昭和史の謎を追う(上)』(いずれも文春文庫)などにおいても、田中上奏文は偽書とされている。しかし、上奏文として偽書であったとして、誰が何を目的として原文を書き、それがどのようにして上奏文として流布するようになったのか、またその後起ったことと文書の内容が符合するのはなぜか、といった問題が解決したわけではない。秦郁彦によれば、日本では偽書説がほぼ定着しているが、中国では長年本物と見なす論が主流であったとする。中国の高校教科書でも本物と印象づけられる紹介をされている例があるとされる[要出典]。また服部龍一、寺田恭輔らはロシアでは本物とする説が強いとの報告もされている[33][5]。
外交関係者の見解
重光葵
石射猪太郎』12月号に掲載されたことを幣原外務大臣に報告した。
しかるにやがて起こった満州事変、中日事変、太平洋戦争において、この創作が殆どその筋書き通りに実演されたのは、驚嘆の他なく、創作者の着想の非凡さと、ヴィジョンの広遠さが、今さら振り返えられるのであった[32]
現状
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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