最後の病院・学校については極めて短い文章で唐突に終わっている。従って、この文書は不完全な文書をベースに作られたとも考えられる。 田中上奏文がどのようにして入手されたかについては諸説がある。 日華倶楽部『支那人の観た日本の満蒙政策』の「例言」には「余日章
田中上奏文の来歴
余日章説
王家髏
ひとつは『?介石秘録』、児島襄『日中戦争1』に掲載されたもので、児島襄によれば、1954年8月28日付香港新『自由人』[23]に掲載された「我怎様取得田中密奏」(私はこうして田中秘密上奏文を入手した)と題する蔡智堪(さいちかん)なる人物[24]の手記が出典である。手記によると、1928年(昭和3年)6月に奉天の東三省保安総局司令官公署外交委員(就任は1928年7月)王家の依頼で政友会代議士の床次竹二郎を通じて内大臣・牧野伸顕にわたりをつけ、その手引きで 宮内省書庫に潜入して上奏文の全文を写し取り、それを王家驍ェ漢訳したという[25]。宮内省潜入の経緯は詳しく書かれているが、誤りや、不審な記述がみられ、この証言への信頼を失わせている。なお、王家驍ヘ張学良の下で働き、日本への留学経験もある。後に国民政府外交部常務次長(1930年 - 1931年)となった。
もう一つは北京の「文史資料集」に収録されていた王家驍フ回想録『日本両機密文件中訳本的来歴』(1960年執筆)[26]に現代史家・秦郁彦が見出したものである。秦が中国の大学に勤務する友人から入手したというそれによると、台湾人の友人(秦は蔡智堪と推定する)が某政党の幹事長宅で書き移した機密文書だとして王家驍ノ分割して送ってきた文書であった。その内容が第一級で、また日本の満蒙政策とも合っていたため弁公室のスタッフを動員して翻訳を実施したものの、誤字・脱字が多く、また判読困難な部分も少なくなかったため整合性のある文章に直すのに苦労したという。その後、張学良の許可を得て印刷し、うち4冊を南京へ送ったところ公表され、心ならずも宣伝材料として使われてしまった、というものである[27]。また秦によれば、回顧録には、日本の浪人や台湾系日本人の工作員であった蔡智堪らが入手した材料を1929年に王家驍ェ加工して上奏文を偽造し、また政府部内に配布した経緯についての記述がある[28]。
ソ連説
ソ連・ロシア公式説
ロシア対外情報庁(SVR)の公式説によれば、1927年9月にソウルに着任したイワン・チチャエフ総領事(実際にはOGPU外国課支局長)が、コードネーム「アポ」(通訳で、ロシア人女性を妻とし、貧しい侍階級出身と描写されている)を通して入手したものとされている。[29]Essad Beyの「Histoire du Guepeou」(邦訳版「ゲ・ペ・ウ秘史」)によれば、ゲーペーウーには密約書等の取引所が設置されており、外国の公使館で往々に正しくない秘密条約を買収し、外国スパイに売却していたとされる。
トロツキー
これは、レフ・トロツキーが1940年に当事者の一人として発表した回想である。トロツキーによれば、1925年にGPUの日本人協力者を通じて日本の機密文書を入手したことをソ連共産党政治局会議で報告され、米国の協力者を通じて最終的にそれを出版することになったというものである。トロツキーは、日本政府の行動そのものが田中上奏文の真実性を証明している、としている。
しかし、いずれの説も原文がどのように入手されたかを述べるが、原文の作成者の解明には、あまり結びつかない。 秦の王家髏烽ナは、原文が「某政党」関係者宅から流出したとしているが、いかなる性質の文書であったのかは書かれていない。 原文が日本人の手になることは、当時、外交の場で田中上奏文に接した重光葵、石射猪太郎、松岡洋右などの見解であるが、この中で、松岡洋右は国際連盟で次のように発言している。「私はその記録が北平に於ける或公使館附陸軍武官によつて、或支那人の黙認のもとに造り上げられたものであると信じ得る報告を前にしてゐる...後に私は確實に信頼し得る方面から、或日本人が、東京会議に於ける日本の参加者側の行動計画を含むと称する秘密の報導の報告を起草したと言ふことを知つたのであり、今日までそれが眞相であることに些少の疑も有して居ない。その記録は支那人に五〇、〇〇〇弗で買はれた。」 公使館附陸軍武官ではなかったが、東方会議のために報告書を書いたという人物が存在する。それは、参謀本部作戦課
鈴木貞一の「談話」説
「談話」によると、森の依頼を受け、東方会議のために河本大作や石原莞爾らと相談して積極的な満蒙政策の案を書いた。「その案といふのは、方針だけいふと、満洲を支那本土から切り離して、さうして別個の土地区画にして、その土地、地域に日本の政治的勢力を入れる。さうして東洋平和の基礎にする」というものであった。しかし、ちょうど東京に来ていた奉天総領事・吉田茂に相談したところ、アメリカに「グウの音」も言わせないようにする必要があるとし、「アメリカのことは斎藤がよく知つてゐる。しかし、かういふ考を剥き出しに出したのでは、内閣ばかりでなしに、元老、重臣、皆承諾しさうもないから、これを一つオブラートに包まなければならぬ。どういふオブラートに包むか。それを斎藤と相談しよう」と、吉田は、ちょうど帰国中であったニューヨーク総領事斎藤博を紹介したので、斎藤が書き改めて案を作ったという[30]。