田中上奏文
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しかしながら私の意見では、この問題の最善の証明は實に今日の満洲に於ける全事態である[16]
太平洋戦争期での扱い

田中上奏文の多くは、1932年以降、主に対米戦争が始まってから出版されたものと考えられる。中国語版や英語版から様々な言語に翻訳され、太平洋戦争中には、田中上奏文を「日本の『我が闘争』」(Japan's Mein Kampf) として、日本の侵略意図を説明するために戦時宣伝に活用され、そのままポツダム宣言の6項目に特に色濃く反映された。
東京裁判での田中文書

日本の敗戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)では、侵略戦争の共同謀議の証拠とすべく国際検察局(IPS)が開廷の直前まで田中上奏文を探した。しかし、1946年5月5日ニューヨーク・タイムズに、田中義一・元内閣書記官長の鳩山一郎が偽文書であることを主張したインタビューが掲載され、更に、元国務省極東局長のJ・バランタインが田中上奏文は存在しないことを説明したので、IPSは探索をあきらめた[17]

1946年7月24日、東京裁判当時・中華民国の国防次長であった秦徳純は、日中戦争の開始に関する証言への反対尋問の中で、田中上奏文の真実性については明言はしなかったが、実在しなくとも現実に行われた日本の行動により表現されていると主張した。25日には、文書の真実性に何か確信があるかとの裁判長の問いに対して「真実のものとも、否ともいえぬ。だが日本が実際に行った事実は田中が預言者であったかの如くさえ思われる。」と答えた[18]。また林逸郎弁護人の「田中覚書の中には福島安正大将の令嬢が金枝玉葉の身を以て蒙古王の顧問になったとか…。到底信用難きことが書かれて居りますが気が付かれませぬでしたか」との問いに、「あなたが非常にお詳しいことに対して敬意を表します、ただし私はその内容に付いて何ら注意したことがございませぬ」と答えた[19]

日本側の証人であった外交官の森島守人は弁護人の質問に「(田中上奏文について)聞いたことがある。またそれが偽物であることも承知している」と答えた。また森島はさらに上奏文の素性と経路に関して「浪人あたりがでっち上げて売り込んだか、中国人の手で創作したか、いずれかであろうと想像される」と述べるつもりであったが検事側からの抗議で発言を打ち切られた[20]

最終的に田中上奏文は東京裁判では証拠として採用されなかった。
内容

田中上奏文は中国語で4万字といわれる長文のものである(日本語の原文は未だ確認されていない)。中国の征服には満蒙(満州蒙古)の征服が不可欠で、世界征服には中国の征服が不可欠であるとしているため、日本による世界征服の計画書だとされた。内容は次のような項目と附属文書から構成されている[21]
満蒙に対する積極政策(資料により「総論」とする)

満蒙は支那に非らず

内外蒙古に対する積極政策

朝鮮移民の奨励及び保護政策

新大陸の開拓と満蒙鉄道

通遼熱河間鉄道、?南より索倫に至る鉄道、長?鉄道の一部鉄道、吉会鉄道、吉会戦線及び日本海を中心とする国策、吉会線工事の天然利益と附帯利権、揮春、海林間鉄道、対満蒙貿易主義、大連を中心として大汽船会社を建立し東亜海運交通を把握すること


金本位制度の実行

第三国の満蒙に対する投資を歓迎すること

満鉄会社経営方針変更の必要

拓殖省設立の必要

京奉線沿線の大凌河流域

支那移民侵入の防御

病院、学校の独立経営と満蒙文化の充実

附属文書

最後の病院・学校については極めて短い文章で唐突に終わっている。従って、この文書は不完全な文書をベースに作られたとも考えられる。
田中上奏文の来歴

田中上奏文がどのようにして入手されたかについては諸説がある。
余日章説

日華倶楽部『支那人の観た日本の満蒙政策』の「例言」には「余日章(中国語版)が五万円の出費によつて日本に於いてその原文書を入手し、これを英語に翻訳し、さきの第三回太平洋問題調査会会議に提せんとしたのであつたが、他国側よりの勧告があり、提出は見合わせた、しかし、その英文訳は諸外国に配られたものであるといふ」と書かれている[22]
王家髏
ひとつは『?介石秘録』、
児島襄『日中戦争1』に掲載されたもので、児島襄によれば、1954年8月28日付香港新『自由人』[23]に掲載された「我怎様取得田中密奏」(私はこうして田中秘密上奏文を入手した)と題する蔡智堪(さいちかん)なる人物[24]の手記が出典である。手記によると、1928年(昭和3年)6月に奉天の東三省保安総局司令官公署外交委員(就任は1928年7月)王家の依頼で政友会代議士の床次竹二郎を通じて内大臣・牧野伸顕にわたりをつけ、その手引きで 宮内省書庫に潜入して上奏文の全文を写し取り、それを王家驍ェ漢訳したという[25]。宮内省潜入の経緯は詳しく書かれているが、誤りや、不審な記述がみられ、この証言への信頼を失わせている。なお、王家驍ヘ張学良の下で働き、日本への留学経験もある。後に国民政府外交部常務次長(1930年 - 1931年)となった。

もう一つは北京の「文史資料集」に収録されていた王家驍フ回想録『日本両機密文件中訳本的来歴』(1960年執筆)[26]に現代史家・秦郁彦が見出したものである。秦が中国の大学に勤務する友人から入手したというそれによると、台湾人の友人(秦は蔡智堪と推定する)が某政党の幹事長宅で書き移した機密文書だとして王家驍ノ分割して送ってきた文書であった。その内容が第一級で、また日本の満蒙政策とも合っていたため弁公室のスタッフを動員して翻訳を実施したものの、誤字・脱字が多く、また判読困難な部分も少なくなかったため整合性のある文章に直すのに苦労したという。その後、張学良の許可を得て印刷し、うち4冊を南京へ送ったところ公表され、心ならずも宣伝材料として使われてしまった、というものである[27]。また秦によれば、回顧録には、日本の浪人や台湾系日本人の工作員であった蔡智堪らが入手した材料を1929年に王家驍ェ加工して上奏文を偽造し、また政府部内に配布した経緯についての記述がある[28]

ソ連説
ソ連・ロシア公式説
ロシア対外情報庁(SVR)の公式説によれば、1927年9月にソウルに着任したイワン・チチャエフ総領事(実際にはOGPU外国課支局長)が、コードネーム「アポ」(通訳で、ロシア人女性を妻とし、貧しい侍階級出身と描写されている)を通して入手したものとされている。


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