田中上奏文
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1930年(昭和5年)1月18日、石射猪太郎吉林省総領事は幣原外務大臣と南京の公使に対して、『時事月報』に掲載された「田中義一の上奏文」と題する長文の「排日記事」が吉林で一部人士にセンセイションを起こし、単行本の計画があるらしいこと、奉天方面では既に配布されたとの噂があることを電報で報じた[10]

2月9日、重光葵公使は、中国国民政府外交部部長王正廷と会見し「田中上奏文」が事実無根として取締まることを要請した。王は4月11日に「出来る丈け取締をなすべし尤も冊子の発売を禁止するが如きは事実上仲々徹底せざる憾ある」から、むしろ「貴方公文中の説明を適宜発表し一般の誤解を解く様にしては如何」と答え[11]、4月12日には機関紙『中央日報』で「田中上奏文」の誤りを報じた[2][12]。当初、中国政府も偽書であると認識していた[2]
日華倶楽部による日本語訳

1930年6月、日華倶楽部が『支那人の観た日本の満蒙政策』という題名で邦訳を刊行した。日華倶楽部は、田中上奏文や、それに対する中国人の見方を発表して、日中問題の認識がいかに食い違っているかを示そうとした。

日華倶楽部によれば、同じ内容の文書が、『日本侵略満蒙政策』、『節訳田中内閣対満蒙積極瀬策奏章』などという題名で流布したほか、英字新聞にも掲載されたという。しかし、日本ではこの田中上奏文に対して反響は少なかった。
英語版、コミンテルンによる流布

田中上奏文は10種類もの中国語版が出版され、組織的に中国で流布され、また1931年には上海の英語雑誌『チャイナ・クリティク』に英語版「タナカ・メモリアル」が掲載され、同内容の小冊子が欧米や東南アジアに配布された[2]ソ連コミンテルン本部も同1931年『コミュニスト・インターナショナル』に全文掲載し、ロシア語、ドイツ語、フランス語で発行し「日本による世界征服構想」のイメージを宣伝した[2]。フランス国会では、1931年11月26日にジャック・ドリオが文章を引用しながら演説をおこなった[13]
国際連盟論戦における中国の対日勝利

1931年(昭和6年)9月の満州事変が勃発。中国は翌1932年のジュネーブの国際連盟第69回理事会において「日本は満州侵略を企図し、世界征服を計画している」と訴え、その根拠として1930年に中国国民政府機関紙で偽書であると報じた田中上奏文を真実の文書として持ちだした[2]。そのため日本政府は田中上奏文が偽書であることを立証する必要にせまられた。

中国は日本が世界征服をもくろんでいると強調し、国際世論に訴えた一方、日本側は文書の真贋を問題とするにとどまった[2]

1932年(昭和7年)5月6日に、ニューヨークの堀内総領事はタイムズ紙に田中上奏文の記事を掲載するについて、田中上奏文の記述の誤りを指摘するため、大正5年の日支交渉担当者田中義一の官職、フィリピン訪問の状況や襲撃事件について事実の確認を外務大臣に求めている。同年、K.K.カワカミ(河上清)は著書、Japan Speaks の中で、犬養毅が指摘する田中上奏文の誤りを掲載して偽書であることを示そうとした。米国人ジャーナリスト・エドガー・スノーは1934年の処女作『極東戦線』(Far Eastern Front)で、田中上奏文について「一九二七年六月、日本の文武官を集めて開かれた、将来のアジア政策についての会議ののちに作成されたもようである」として触れている。スノーは、日本政府や犬養毅が田中上奏文を偽造であるとしたことを紹介し「この覚書が示す考えとほとんど同じ考えをもっていた右翼の手によって暗殺された古ギツネ(犬養毅[14])の悲劇的な死は、たとえ覚書自身がにせものであったとしても、その背後にある精神の実態をもっともよく証明するものだと思われる。もしにせものづくりがこの覚書をデッチあげたのだとすれば、彼はすべてを知りつくしていたことになる。この文書がはじめて世界に出たのは一九二八年だったが、それは最近数年間の日本帝国主義の進出にとってまちがいない手引き書となったのである。」と述べた。スノーは『アジアの戦争』Battle for Asia (1941年)の中でも、田中上奏文の一説を引用している。
国際連盟評議会における日中の見解

1932年の国際連盟評議会において松岡洋右は日本政府"公式"見解として北平(北京)駐在陸軍武官と中国人の合作(ただし、翻訳からの二次引用)としている。

私はその記録が北平に於ける或公使館附陸軍武官によつて、或支那人の黙認のもとに造り上げられたものであると信じ得る報告を前にしてゐる。……
後に私は確實に信頼し得る方面から、或日本人が、東京会議に於ける日本の参加者側の行動計画を含むと称する秘密の報導の報告を起草したと言ふことを知つたのであり、今日までそれが眞相であることに些少の疑も有して居ない。その記録は支那人に五〇、〇〇〇弗で買はれた。それは事實であつて私に関する限り私はそれを眞實であると信ずるものである[15]

これに対して同評議会において顧維鈞は中国政府"公式"見解として、仮に捏造されたものとしても或る日本人によつて捏造されたに相違なく、この問題の最善の証明は實に今日の満洲に於ける全事態であると答えた。

もしもこの記録が仮に捏造されたものとするもそれは或る日本人によつて捏造されたに相違ない、何となれば現代の日本が行つた政策を、如何なる支那人も詳細に亘つてかくまでうまく云ひあらはし描き出すことはできないからである。
しかしながら私の意見では、この問題の最善の証明は實に今日の満洲に於ける全事態である[16]
太平洋戦争期での扱い

田中上奏文の多くは、1932年以降、主に対米戦争が始まってから出版されたものと考えられる。中国語版や英語版から様々な言語に翻訳され、太平洋戦争中には、田中上奏文を「日本の『我が闘争』」(Japan's Mein Kampf) として、日本の侵略意図を説明するために戦時宣伝に活用され、そのままポツダム宣言の6項目に特に色濃く反映された。
東京裁判での田中文書

日本の敗戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)では、侵略戦争の共同謀議の証拠とすべく国際検察局(IPS)が開廷の直前まで田中上奏文を探した。しかし、1946年5月5日ニューヨーク・タイムズに、田中義一・元内閣書記官長の鳩山一郎が偽文書であることを主張したインタビューが掲載され、更に、元国務省極東局長のJ・バランタインが田中上奏文は存在しないことを説明したので、IPSは探索をあきらめた[17]


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