田の神
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田植衣装のこうした華々しさは、田植が重要なハレの行事であったことを物語っている[24]。五月を「サツキ」と呼ぶのは「田植え月」の意味であり[22]、それゆえ早乙女は「五月女」と書くこともある。
田植飯竿燈(秋田市)

田植の日に田で働く人々が食べる飯を田植飯と呼んでいる[25]。これは、田の神と一緒に食べる神聖な食事で、その炊飯も年神に供えた割木を束にした年木を燃料に使うとされている。田植飯を田に運ぶのは、着飾ったオナリと呼ばれる女性である[26]。オナリの仕事は、かつては家早乙女や内早乙女と呼ばれた田主の家族の若い女性の役目であったが、早乙女が田植をする女性をさすようになって、両者が区別されるに至ったものと考えられる。
除災の行事

青森のねぶた流し(ねぶた)や秋田のねぶり流し(竿灯の旧名)はいずれも七夕行事に属すると考えられているが、元来は眠気払いの除災行事の性格を持っていた[27]。それが星祭りや織姫伝承などと結びついたのである[27]。七夕行事が各地で人形燈篭などを流す行事をともなうのは、起源が(ハライ)にかかわることを示唆している[27]
収穫時の祭礼刈上げられた稲(宮城県栗原市かかし
穂掛け

穂掛けとは刈初めの行事で、刈入れに先だって少量の稲穂を田よりもってきて神前にかけ、新米の焼米を供えるもので、その年の最初の稲米を神に供える神事である[28][29]。西日本では八朔の穂掛けと呼ぶことがあり、その場合は八朔の日(旧暦8月1日)を祭日としている[28][29]
刈上げ

刈上げとは稲刈り終了後におこなわれる行事で、収穫祭の代表となっている[30]。田の神が田を去るときにおこなうものとも考えられている。田の脇に刈穂のニホを積んで祭るのが古い形式であったという[3]。この祭日は地方によって違いがみられ、東北地方では「三九日」(みくにち)、関東地方の北西部から甲信越地方にかけては「十日夜」(とおかんや)、西日本から千葉茨城埼玉の一部など太平洋沿岸にかけてでは「亥子」(いのこ)、九州では霜月祭などと呼ばれる[30]。仕事に用いた鎌を洗って飾ったり、カリアゲモチというおはぎ(ぼた餅)を田の神に供えたりする。
三九日

三九日とは、旧暦9月9日19日29日のこと[30]。クニチ、オクンチ、ミクンチ、サンクニチなどの呼称もある。各地でさまざまな行事がみられるが、東北地方では9月29日までに稲を取り入れるとされる。また、9日の餅を食べた後、10月になってから神が出雲国に旅立たれると信じられていた。神無月の伝承とこれを結びつけたがゆえに混乱の生じた地域もあったが、旧10月中旬以降に神を田から送る祭は各地でおこなわれた[3]
十日夜

関東西部から甲信越にかけての旧暦10月10日の刈上げの行事を十日夜(とおかんや)という[30]。子どもたちが藁束で地面をついてまわったり、カリアゲモチを神棚にあげたりする[31]。藁鉄砲で地面を打ちあるくのはモグラムジナを防ぐ呪術と考えられる[31]。長野県では、10月10日のカカシを田からもってきて庭先に立て、をおいて餅を供えるかかしあげの行事がおこなわれる[31]。その餅を焼く火はカカシのをこわして焚き付けとするところもあり、が供え餅を背負ってカカシの昇天にお供するという伝承の残る地域がある[注釈 4]。また、大根の年取りという行事をおこなうところもある[31]
亥の子

亥の子とは旧暦10月の亥の日に行う刈上げ行事で、太平洋沿岸から西日本、南九州にまでみられる[30][32]。子どもたちが石や藁ボチで地面をたたいてまわり、家々からをもらう風習がみられる。十日夜にもみられる風習だが、これは収穫を終えた土地を鎮める儀礼とも考えられている。
アエノコト、新嘗祭

奥能登に伝わるアエノコトは上述したとおり、田を守ってくれた田の神を家に迎えて、その年に収穫した品々を供えてまつるものであり、新嘗祭は神人共食直会の行事である[7]
鹿児島県・宮崎県の田の神タノカンサァ(鹿児島県鹿屋市野里)

田の神の具体的な像は不明なことが多い。すでに述べた通り、水口にさした木の枝やそれを束ねたもの、花、石などが依代とされることが多く、常設の祠堂をもたないのが全国的な傾向である[2]。しかし、そうしたなかにあって田の神の石像が九州地方南部の薩摩大隅日向の一部(都城周辺)に限って分布することは注目に値する[2]。ここでは、集落ごとに杓子すりこぎを持ったタノカンサァ(田の神さま)と称する石像を田の岸にまつる風習がみられる[2][4]鹿児島市西佐多浦町の民俗事例では「田の神オナオリ」といって、年1回春に、田の神に念入りに化粧が施されたうえ、戸外にかつぎ出して花見をさせ、宿うつりを行っている。この例をはじめ、南九州では旧暦2月と旧暦10月または11月のいずれもの日に(つまり春秋の2度にわたって)田の神講が広くおこなわれている[2]

タノカンサァの石像は18世紀初め頃よりつくられ始めたものとみられ、薩摩藩領にのみ石像が分布して他地域ではみられないことはこれを傍証するが、形態的には、
仏像型 → 僧型 → 旅僧型

神像型 → 神職型 → 田の神舞型(または神舞神職型)

の系統の異なる2流の展開がみとめられ、これについては、小野重朗による詳細な研究がある[2][注釈 5]

青山幹雄の『宮崎の田の神像』によれば、宮崎県の場合は、旧薩摩藩支配領域に元々分布していたが、明治時代以降人々の移動により、その分布がやや拡大し、たとえば宮崎市近郊にも広がったこと、古い習慣で「オットイタノカンサー」、すなわち、部落の若者が他の部落から石像を盗む習慣などが記載されている[34]。これは、習慣であるから、また取り戻すのが普通で、実際に盗んだままということは少ない[34]。また、秋の収穫時の祭りには品のない言い合いをして、日ごろのうっぷんを晴らしたり、それについては江戸時代では、武士などは見て見ぬふりをしたという[34]。宮崎県には神官型が多く、鹿児島県には農民型が多い。側面から背面にかけて男根に類似する造形も多く、各地の道祖神や宮崎県小林陰陽石などに見られる生殖器崇拝の影響も見られる[34][35]。また、霧島噴火なども関係あるとしている[34]。宮崎県に僧侶形が稀なのは、一向宗弾圧と関係あるのではないかと述べている[34]。宮崎市の生目小学校前にはコンクリート製の田の神が設置されている[34]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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