田の神
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苗を田からもってきて荒神カマド神などに酒や食事とともに供える神事をおこない、早乙女はじめ田植に参加した人々を招いて祝宴をもよおした地方が多い[21]太平洋戦争後は家ごとの祭りになっているが、それ以前は地主や親方衆の家でおこなわれ、各家庭ではおこなわれなかった。家ごとでサナブリがおこなわれるようになって以後、集落全体あるいは市町村単位、単位で大サナブリ(サノボリ)大会を開き、互いに郷土芸能を披露し合う行事が各地で生まれたが、農村における共同体意識が急速に失われつつある今日では、大サナブリ、各戸別のサナブリともに顧みられなくなってきているのが現状である[21]
田植(大田植、花田植)早乙女による田植(香取神宮御田植祭

田植は農耕儀礼の最も重要な段階であった[22]。この行為がかつて祭の儀礼をなしていたことは今に残る大田植の形態にみとめられる[22]。大田植は、字義通りには大規模な田植ということだが、最も多く植える日、田植盛りの日、最も大きな田の田植日、田植終いの日など、さまざまな意味で用いられる[23]中国地方の山間部では、旧家の由緒ある田に美しく着飾ったを入れて代かきをし、ささら太鼓などのに合わせて田植歌をうたいながら早乙女たちが田植をすることを大田植と呼んでいる。同様の行事を花田植と呼ぶ地方もある[22]
早乙女

田植の日に苗を田に植える女性のことを早乙女と呼んでいる[24]ハレの役であり、神に奉仕する神役でもあって、これに加わらないのは、かつて娘の恥とさえ考えられていた[24]。この日はハレ着(紺の単衣に赤い、白い手ぬぐい、新しい菅笠)を着用した。田植衣装のこうした華々しさは、田植が重要なハレの行事であったことを物語っている[24]。五月を「サツキ」と呼ぶのは「田植え月」の意味であり[22]、それゆえ早乙女は「五月女」と書くこともある。
田植飯竿燈(秋田市)

田植の日に田で働く人々が食べる飯を田植飯と呼んでいる[25]。これは、田の神と一緒に食べる神聖な食事で、その炊飯も年神に供えた割木を束にした年木を燃料に使うとされている。田植飯を田に運ぶのは、着飾ったオナリと呼ばれる女性である[26]。オナリの仕事は、かつては家早乙女や内早乙女と呼ばれた田主の家族の若い女性の役目であったが、早乙女が田植をする女性をさすようになって、両者が区別されるに至ったものと考えられる。
除災の行事

青森のねぶた流し(ねぶた)や秋田のねぶり流し(竿灯の旧名)はいずれも七夕行事に属すると考えられているが、元来は眠気払いの除災行事の性格を持っていた[27]。それが星祭りや織姫伝承などと結びついたのである[27]。七夕行事が各地で人形燈篭などを流す行事をともなうのは、起源が(ハライ)にかかわることを示唆している[27]
収穫時の祭礼刈上げられた稲(宮城県栗原市かかし
穂掛け

穂掛けとは刈初めの行事で、刈入れに先だって少量の稲穂を田よりもってきて神前にかけ、新米の焼米を供えるもので、その年の最初の稲米を神に供える神事である[28][29]。西日本では八朔の穂掛けと呼ぶことがあり、その場合は八朔の日(旧暦8月1日)を祭日としている[28][29]
刈上げ

刈上げとは稲刈り終了後におこなわれる行事で、収穫祭の代表となっている[30]。田の神が田を去るときにおこなうものとも考えられている。田の脇に刈穂のニホを積んで祭るのが古い形式であったという[3]。この祭日は地方によって違いがみられ、東北地方では「三九日」(みくにち)、関東地方の北西部から甲信越地方にかけては「十日夜」(とおかんや)、西日本から千葉茨城埼玉の一部など太平洋沿岸にかけてでは「亥子」(いのこ)、九州では霜月祭などと呼ばれる[30]。仕事に用いた鎌を洗って飾ったり、カリアゲモチというおはぎ(ぼた餅)を田の神に供えたりする。
三九日

三九日とは、旧暦9月9日19日29日のこと[30]。クニチ、オクンチ、ミクンチ、サンクニチなどの呼称もある。各地でさまざまな行事がみられるが、東北地方では9月29日までに稲を取り入れるとされる。また、9日の餅を食べた後、10月になってから神が出雲国に旅立たれると信じられていた。神無月の伝承とこれを結びつけたがゆえに混乱の生じた地域もあったが、旧10月中旬以降に神を田から送る祭は各地でおこなわれた[3]
十日夜

関東西部から甲信越にかけての旧暦10月10日の刈上げの行事を十日夜(とおかんや)という[30]。子どもたちが藁束で地面をついてまわったり、カリアゲモチを神棚にあげたりする[31]。藁鉄砲で地面を打ちあるくのはモグラムジナを防ぐ呪術と考えられる[31]。長野県では、10月10日のカカシを田からもってきて庭先に立て、をおいて餅を供えるかかしあげの行事がおこなわれる[31]。その餅を焼く火はカカシのをこわして焚き付けとするところもあり、が供え餅を背負ってカカシの昇天にお供するという伝承の残る地域がある[注釈 4]。また、大根の年取りという行事をおこなうところもある[31]
亥の子

亥の子とは旧暦10月の亥の日に行う刈上げ行事で、太平洋沿岸から西日本、南九州にまでみられる[30][32]。子どもたちが石や藁ボチで地面をたたいてまわり、家々からをもらう風習がみられる。十日夜にもみられる風習だが、これは収穫を終えた土地を鎮める儀礼とも考えられている。
アエノコト、新嘗祭

奥能登に伝わるアエノコトは上述したとおり、田を守ってくれた田の神を家に迎えて、その年に収穫した品々を供えてまつるものであり、新嘗祭は神人共食直会の行事である[7]
鹿児島県・宮崎県の田の神タノカンサァ(鹿児島県鹿屋市野里)

田の神の具体的な像は不明なことが多い。すでに述べた通り、水口にさした木の枝やそれを束ねたもの、花、石などが依代とされることが多く、常設の祠堂をもたないのが全国的な傾向である[2]。しかし、そうしたなかにあって田の神の石像が九州地方南部の薩摩大隅日向の一部(都城周辺)に限って分布することは注目に値する[2]。ここでは、集落ごとに杓子すりこぎを持ったタノカンサァ(田の神さま)と称する石像を田の岸にまつる風習がみられる[2][4]


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