三九日とは、旧暦9月9日・19日・29日のこと[30]。クニチ、オクンチ、ミクンチ、サンクニチなどの呼称もある。各地でさまざまな行事がみられるが、東北地方では9月29日までに稲を取り入れるとされる。また、9日の餅を食べた後、10月になってから神が出雲国に旅立たれると信じられていた。神無月の伝承とこれを結びつけたがゆえに混乱の生じた地域もあったが、旧10月中旬以降に神を田から送る祭は各地でおこなわれた[3]。 関東西部から甲信越にかけての旧暦10月10日の刈上げの行事を十日夜(とおかんや)という[30]。子どもたちが藁束で地面をついてまわったり、カリアゲモチを神棚にあげたりする[31]。藁鉄砲で地面を打ちあるくのはモグラやムジナを防ぐ呪術と考えられる[31]。長野県では、10月10日のカカシを田からもってきて庭先に立て、臼と桝をおいて餅を供えるかかしあげの行事がおこなわれる[31]。その餅を焼く火はカカシの笠をこわして焚き付けとするところもあり、蛙が供え餅を背負ってカカシの昇天にお供するという伝承の残る地域がある[注釈 4]。また、大根の年取りという行事をおこなうところもある[31]。 亥の子とは旧暦10月の亥の日に行う刈上げ行事で、太平洋沿岸から西日本、南九州にまでみられる[30][32]。子どもたちが石や藁ボチで地面をたたいてまわり、家々から餅をもらう風習がみられる。十日夜にもみられる風習だが、これは収穫を終えた土地を鎮める儀礼とも考えられている。 奥能登に伝わるアエノコトは上述したとおり、田を守ってくれた田の神を家に迎えて、その年に収穫した品々を供えてまつるものであり、新嘗祭は神人共食の直会の行事である[7]。 田の神の具体的な像は不明なことが多い。すでに述べた通り、水口にさした木の枝やそれを束ねたもの、花、石などが依代とされることが多く、常設の祠堂をもたないのが全国的な傾向である[2]。しかし、そうしたなかにあって田の神の石像が九州地方南部の薩摩、大隅、日向の一部(都城周辺)に限って分布することは注目に値する[2]。ここでは、集落ごとに杓子やすりこぎを持ったタノカンサァ(田の神さま)と称する石像を田の岸にまつる風習がみられる[2][4]。鹿児島市西佐多浦町の民俗事例では「田の神オナオリ」といって、年1回春に、田の神に念入りに化粧が施されたうえ、戸外にかつぎ出して花見をさせ、宿うつりを行っている。この例をはじめ、南九州では旧暦2月と旧暦10月または11月のいずれも丑の日に(つまり春秋の2度にわたって)田の神講が広くおこなわれている[2]。 タノカンサァの石像は18世紀初め頃よりつくられ始めたものとみられ、薩摩藩領にのみ石像が分布して他地域ではみられないことはこれを傍証するが、形態的には、 の系統の異なる2流の展開がみとめられ、これについては、小野重朗による詳細な研究がある[2][注釈 5]。 青山幹雄の『宮崎の田の神像』によれば、宮崎県の場合は、旧薩摩藩支配領域に元々分布していたが、明治時代以降人々の移動により、その分布がやや拡大し、たとえば宮崎市近郊にも広がったこと、古い習慣で「オットイタノカンサー」、すなわち、部落の若者が他の部落から石像を盗む習慣などが記載されている[34]。これは、習慣であるから、また取り戻すのが普通で、実際に盗んだままということは少ない[34]。また、秋の収穫時の祭りには品のない言い合いをして、日ごろのうっぷんを晴らしたり、それについては江戸時代では、武士などは見て見ぬふりをしたという[34]。宮崎県には神官型が多く、鹿児島県には農民型が多い。側面から背面にかけて男根に類似する造形も多く、各地の道祖神や宮崎県小林の陰陽石などに見られる生殖器崇拝の影響も見られる[34][35]。また、霧島噴火なども関係あるとしている[34]。宮崎県に僧侶形が稀なのは、一向宗弾圧と関係あるのではないかと述べている[34]。宮崎市の生目小学校前にはコンクリート製の田の神が設置されている[34]。 もとより、田の神講そのものは他地域でも広くみられ、「田神」「田ノ神」「田の神」の文字の彫られた石碑は南九州に限らず、全国の路傍などに広汎に分布している[36]。 鹿児島県・宮崎県の田の神像記銘年号一覧(年号の有る像のみ)[37]年号鹿児島県宮崎県 南は九州地方から北は秋田県地方まで、全国に狐塚の地名は多いが、これは民間信仰において、狐が田の神の使い(ミサキ)だと考えられていたことに由来する[2][38][39]。元は田の近くに塚(狐塚)を築いて祭場としたものが、のちに稲荷神を勧請して祠としたことが、稲荷信仰が全国的に広がる契機となったものと考えられている[2][38][39]。 狐を田の神、もしくは田の神の使いとみる信仰は全国的なものだが、数ある動物のなかでなぜ狐が選ばれたのかについては、人獣交渉史の観点、生態学的観点などをふくめ考慮されるべきである[39]。人間と狐の交渉は長い歳月のあいだに大きな変遷を遂げており、いたずら者、だます獣、狐火を発する妖しい動物といった口承の、さらに古層には、人間に好意を持ち、恩恵を与える存在としての狐の伝承もみられる[39]。
十日夜
亥の子
アエノコト、新嘗祭
鹿児島県・宮崎県の田の神タノカンサァ(鹿児島県鹿屋市野里)
仏像型 → 僧型 → 旅僧型
神像型 → 神職型 → 田の神舞型(または神舞神職型)
宝永(1704)20
正徳(1711)20
享保(1716)2011
元文(1736)124
寛保(1741)60
延享(1744)41
寛延(1748)111
宝暦(1751)157
明和(1764)140
安永(1772)293
合計11527
狐塚と稲荷信仰「稲荷神」も参照神使キツネ
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 古い宇賀の神は中世の都市生活においては福神として祭られたという[3]。
Size:74 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef