田の神
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また、秋の収穫時の祭りには品のない言い合いをして、日ごろのうっぷんを晴らしたり、それについては江戸時代では、武士などは見て見ぬふりをしたという[34]。宮崎県には神官型が多く、鹿児島県には農民型が多い。側面から背面にかけて男根に類似する造形も多く、各地の道祖神や宮崎県小林陰陽石などに見られる生殖器崇拝の影響も見られる[34][35]。また、霧島噴火なども関係あるとしている[34]。宮崎県に僧侶形が稀なのは、一向宗弾圧と関係あるのではないかと述べている[34]。宮崎市の生目小学校前にはコンクリート製の田の神が設置されている[34]

もとより、田の神講そのものは他地域でも広くみられ、「田神」「田ノ神」「田の神」の文字の彫られた石碑は南九州に限らず、全国の路傍などに広汎に分布している[36]

鹿児島県・宮崎県の田の神像記銘年号一覧(年号の有る像のみ)[37]年号鹿児島県宮崎県
宝永(1704)20
正徳(1711)20
享保(1716)2011
元文(1736)124
寛保(1741)60
延享(1744)41
寛延(1748)111
宝暦(1751)157
明和(1764)140
安永(1772)293
合計11527

狐塚と稲荷信仰「稲荷神」も参照神使キツネ

南は九州地方から北は秋田県地方まで、全国に狐塚の地名は多いが、これは民間信仰において、が田の神の使い(ミサキ)だと考えられていたことに由来する[2][38][39]。元は田の近くに(狐塚)を築いて祭場としたものが、のちに稲荷神勧請して祠としたことが、稲荷信仰が全国的に広がる契機となったものと考えられている[2][38][39]

狐を田の神、もしくは田の神の使いとみる信仰は全国的なものだが、数ある動物のなかでなぜ狐が選ばれたのかについては、人獣交渉史の観点、生態学的観点などをふくめ考慮されるべきである[39]。人間と狐の交渉は長い歳月のあいだに大きな変遷を遂げており、いたずら者、だます獣、狐火を発する妖しい動物といった口承の、さらに古層には、人間に好意を持ち、恩恵を与える存在としての狐の伝承もみられる[39]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 古い宇賀の神は中世の都市生活においては福神として祭られたという[3]
^ 島根県には、他地方の田の神の祭日を山の神の祭日とするところがあり、山形県・新潟県の県境地方の村々では「山の神」と呼ばれるのが実は農民の祭る田の神であって、山仕事をする人の神である本来の山の神とは異なるというケースがあるという[3]
^ 苗代田は毎年一定の場所につくられることが多かった。また、播種の時期は特定の草木の開花の時期や雪形(山の残雪のかたち)で決めることが多かった[15]
^ 蛙を田の神の使いとするのは福島県にも例がある[3]
^ 山川出版社『図説 民俗探訪事典』(1983年)に、小野重朗「田の神サマ百体」(1970年)を原図とする石像の縮小図を配した2系統ごとの分布図が転載されている[33]

出典^ a b c d e f コトバンク「田の神」
^ a b c d e f g h i j 『図説 民俗探訪事典』(1983)pp.181-184
^ a b c d e f g h i 『民俗学辞典』(1951)「田の神」
^ a b c d e f g h i j 直江(1979)pp.194-196
^ a b コトバンク「山の神」
^ a b c d 湯川 (1999)pp.90-91
^ a b c 『民俗の事典』(1972)「あえのこと」p.265
^ a b c 『民俗の事典』(1972)「田の神」pp.295-296
^ コトバンク「案山子」
^ 『民俗の事典』(1972)「かがし」p.160
^ a b c d 『民俗の事典』(1972)「屋敷神」pp.296-297
^ 『民俗の事典』(1972)「地神」pp.296-297
^ a b 『民俗の事典』(1972)「田遊び」pp.333-334
^ 『民俗の事典』(1972)「えんぶり」p.335
^ 『図説 民俗探訪事典』(1983)p.220
^ 『図説 民俗探訪事典』(1983)p.219 写真
^ 井之口 (1959)p.124


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