たのなか いさむ
田の中 勇
プロフィール
本名田野中 勇
(たのなか いさむ)[1][2]
愛称タノ[3]、タノさん[4]
性別男性
出身地 日本・東京都台東区[5]
死没地 日本・東京都世田谷区
生年月日 (1932-07-19) 1932年7月19日
没年月日 (2010-01-13) 2010年1月13日(77歳没)
血液型B型[6]
職業声優
事務所青二プロダクション
(最終所属)
配偶者なし
公式サイト田の中 勇|青二プロダクション
田の中 勇(たのなか いさむ、1932年7月19日[2][4] - 2010年1月13日[5])は、日本の男性声優。東京都台東区出身[5]。青二プロダクションに所属していた[5]。 劇団こだま座[2]、劇団化粧座[2]、劇団東芸、テアトル・エコー、土の会[2]、東京アクターズプロ[2]を経て、青二プロダクションに所属していた[5]。 三男坊として誕生[8]。 慶應義塾高等学校[6]時代の同級生に日下武史、小林亜星がおり、コーラス部で一緒に歌っていたという[2]。 同高校を出てすぐの1951年、特に役者になろうと思ったわけではなかったが、暇でしかたがなかったので劇団などを受けたものの落とされ、新聞広告に出ていた国際総合芸術研究所のラジオ科に通いはじめた[注 1][2][9]。そこの面子で劇団を結成し、宮澤賢治の『カイロ団長』を初めとして公演を行うが、マネージャーに金を持ち逃げされ、劇団員のつてで劇団東芸に入ることになる[注 2][9]。研究生仲間に富田耕生がいる[2]。東芸入団後、『青いりんご』『警察日記』と、立て続けに舞台に立つ[2]。劇団の先輩だった森山周一郎、大塚周夫らが、ラジオ、テレビの放送に出演していたことから、研究生だった田の中らにもしばしば出演の機会が与えられる[2]。その時、ラジオの仕事をして、ラジオドラマに出演[2][6]。東芸には二年ほど所属したが、そのなかの七、八人が徒党を組んで造反し、テアトル・エコーに移籍したのに付いていった[9]。 1955年頃、桜井センリに習っていた事があり、桑原たけしと一緒に習っていた[6]。もう1人が生徒として通っており、桜井が「4人でジャズコーラスをやろうよ」と提案し、レッスンもそこそしてコーラスグループを始めてNHKのオーディションにも受かったという[6]。桜井がハナ肇とクレージーキャッツに加入後3人では仕方ないため、もう1人、女性を加入してしばらく活動していた[6]。 テアトル・エコー在団中の頃に、TBS劇団の試験に合格し、講習を受けていた時期があったが、結局、入団しなかったという[6]。 25、26歳で声優としての活動を始める[6]。アテレコでのデビューは『ライフルマン』[2]。 2010年1月13日、心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で亡くなっているのを家族によって発見された[10]。満77歳没(享年79)。生涯独身だった。特に体調が優れないということはなく、心臓の病気もなかったという[11]。『マリー&ガリー』第32話『ピザなのにパイ』の出演が最後の仕事となった[11][12]。他に死後に発表された出演としては、『ゲゲゲの鬼太郎』第5期シリーズのDVD-BOXの特典映像で鬼太郎役の高山みなみらレギュラー陣と目玉おやじで共演しているのと、同時に発売されたシングルCD『ゲゲゲの鬼太郎・妖怪パラパラ』で、高山みなみ、今野宏美(猫娘)、高木渉(ねずみ男)、八奈見乗児(一反木綿)、丸山優子(かわうそ)、豊嶋真千子(ろくろ首)、池澤春菜(アマビエ)、中山さら(呼子)と台詞共演したのが事実上の遺作となった。また、2006年に死去した野本礼三に代わり、ゲーム『ドラゴンボールZ3』、『ドラゴンボール レイジングブラスト』で老界王神役を引き継いだが、田の中自身も2010年に死去したため、その後発売されたゲーム『ドラゴンボール アルティメットブラスト』では田中亮一が引き継ぐことになった。 青二プロダクションの創立メンバーのひとり[13]。
生涯
生い立ち
キャリア
死去
人物・特色
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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