産経新聞
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1950年(昭和25年) - 前田久吉が追放解除により社長に復帰する。3月から東京でも印刷・発行を開始。紙面を経済紙から一般紙に変更し、全国紙としての基礎を固める。

1951年(昭和26年)1月1日 - 世界経済新聞社が1946年に東京で『世界日報』として創刊した『夕刊世界経済』を東京発行の『産業経済新聞』に合併(『世界日報』はのちに統一教会(世界平和統一家庭連合)の機関紙として復刊)。「世界経済合同」を題字下に追加した。「世界日報 (日本)#概要」も参照

1952年(昭和27年)2月 - 『週刊サンケイ』(のちのSPA!)創刊。

1953年(昭和28年)6月 - 東京で夕刊発行を開始。

1955年(昭和30年)11月1日 - 東京発行の『産業経済新聞』が『時事新報』を合同し、『産經時事』に改題。国有地払い下げで取得した東京都千代田区大手町に東京本社ビル(現・東京サンケイビル)が完成。

1956年(昭和31年)3月 - 大阪で夕刊発行を開始。

1958年(昭和33年) - 東京進出により債務過多、経営危機に陥り、住友銀行(現・三井住友銀行)の支援を受け、また財界関係者を首脳に迎える。その引き換えとして論調を右派強硬路線に転換。7月11日、東京発行の『産経時事』を『産經新聞』に改題[注釈 3]

1959年(昭和34年)2月1日 - 大阪発行の『産業経済新聞』を『産經新聞』に改題(東西で異っていた題号を『産經新聞』に統一[注釈 3])。

1964年(昭和39年) - サンケイスカラシップフジテレビジョンなどと共に創設し、海外留学派遣事業を支援した。1989年(平成元年)に終了。

1967年(昭和42年) - フジテレビジョン、ニッポン放送文化放送とともにフジサンケイグループを結成する。

1969年(昭和44年)

5月 - 題号を『サンケイ』に改題(正式名称は産業経済新聞のまま。但し、欄外の題字と社旗は1962年2月1日付けに先行で「サンケイ(新聞)」のカタカナ題号を使用開始している)

9月1日 - 「サンケイ1000人調査」のタイトルで、連日(週4回)世論調査を開始(経営難により1977年3月に終了)[11]


1973年(昭和48年)12月 - サンケイ新聞事件が起こる。

1986年(昭和61年)

4月1日 - 題字右側にフジサンケイグループのシンボルマーク「目玉マーク」が添付。

10月 - 宮城県仙台市で現地印刷開始。


1988年(昭和63年)5月28日 - 題号を再び漢字の『産經新聞』(正式名称は産業経済新聞のまま)に戻し、全国紙初の本格的カラー紙面を採用する。題号の変更に伴い「週刊サンケイ」を系列の扶桑社に移譲する(通巻号数はそのままで内容をリニューアルし「SPA!」と改題される)。

1991年平成3年)1月 - 漫画新聞『コミックサンケイ』が発刊される。

1992年(平成4年)7月 - 鹿内宏明会長が解任される。いわゆる「産経クーデター」。

2002年(平成14年)4月1日 - 東京本社版が3月30日付で夕刊を廃刊し全国紙で初の朝刊単独紙に移行。

2004年(平成16年)12月1日 - 大阪新聞と統合。「日本工業新聞」、「フジサンケイビジネスアイ」にリニューアル。

2005年(平成17年)8月8日 - 大阪本社が浪速区湊町二丁目の難波サンケイビルに移転。

2007年(平成19年)10月1日 - マイクロソフト運営ポータルサイトMSNと提携し「MSN産経ニュース」開始(2014年9月30日まで)。

2008年(平成20年)12月11日 - 産経新聞社が九州山口県への販路拡大を目的に、毎日新聞西部本社の工場(佐賀県鳥栖市)で産経新聞の委託印刷を翌年10月から行うことで毎日新聞社と基本合意。

2009年(平成21年)

1月19日 - 業績悪化により早期希望退職制度を募集。

4月1日 - 産経新聞の九州現地印刷に伴い、九州総局(福岡県福岡市中央区渡辺通り[注釈 4])内に「九州・山口本部」を新設。

10月1日 - 「九州・山口特別版」発刊。


2010年(平成22年)7月26日 - 本文のフォントを変更。全体的に太いフォントを採用した。産経新聞グループの紙面全体の数字や、ラ・テ欄の時間表記も変わっている。

2011年(平成23年)

6月22日 - 専務取締役大阪本社代表・熊坂隆光が社長に就任。現任の住田は相談役。
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