一方で、他紙が紙に拘る中でインターネットでの報道事業・デジタルに早くから力を入れ、2005年11月からウェブサイト版(ニュースサイト)として産経デジタル運営の「産経ニュース」開設や検索サイトとのニュース提携などしてきた[9]。Smart Flashは、2022年12月の仕様変更によってTwitterの投稿閲覧回数が第三者からも可視化された際に、4大紙[注釈 2]の中で最もフォロワー数で劣るものの、閲覧回数が読売・朝日・毎日に比べても多いことから、他紙のTwitterアカウントの被ミュート数がフォロワー数に比して多いのではないかという関係者の考察を紹介し、2022年12月末時点で約133万がフォローする「朝日新聞」、約98万のフォロワーを擁する「毎日新聞」、約83万のフォロワーが存在する「読売新聞オンライン」のツイート閲覧回数が数千回であり、多くとも1万回程度の一方で、約70万がフォローする「産経ニュース」のニュース配信ツイートは、表示回数が1万回を超えるものが多く、なかには5万回以上の表示回数を記録するツイートがあると報じた[10]。
沿革旧題字(1969年)
1933年(昭和8年)6月20日 - 前田久吉の経営する夕刊大阪新聞社によって、『日本工業新聞』として大阪市で創刊される。会社側は、この日を産経新聞の創刊日としている[3]。
1942年(昭和17年) 国家総動員法に付属した勅令新聞事業令に基づき、『大阪中外商業新報』など名古屋以西を拠点としていた経済各紙と強制統合。11月1日から題号を『産業經済新聞』[3]、商号を産業経済新聞社(さんぎょうけいざいしんぶんしゃ)にそれぞれ変更した。現在の『産経新聞』の題号に直接つながるという意味では、この日が実質的な創刊日である。
なお東日本の経済紙は東京で中外商業新報社が発行していた「中外商業新報」を中心に統合、『日本産業経済』(にほんさんぎょうけいざい、現・日本経済新聞)となった。これ以後、産経が東京に進出するまで日本産業経済と産業経済新聞は取材・販売地域の棲み分けをさせられたため、日本経済新聞と本紙はこの時点で同じ歴史の流れに組み込まれた。「新聞統制#新聞統合の進捗」および「日本経済新聞#沿革」も参照
1946年(昭和21年) - 前田久吉が新聞による戦意高揚に関与したとして公職追放される。
1950年(昭和25年) - 前田久吉が追放解除により社長に復帰する。3月から東京でも印刷・発行を開始。紙面を経済紙から一般紙に変更し、全国紙としての基礎を固める。
1951年(昭和26年)1月1日 - 世界経済新聞社が1946年に東京で『世界日報』として創刊した『夕刊世界経済』を東京発行の『産業経済新聞』に合併(『世界日報』はのちに統一教会(世界平和統一家庭連合)の機関紙として復刊)。「世界経済合同」を題字下に追加した。「世界日報 (日本)#概要」も参照
1952年(昭和27年)2月 - 『週刊サンケイ』(のちのSPA!)創刊。
1953年(昭和28年)6月 - 東京で夕刊発行を開始。
1955年(昭和30年)11月1日 - 東京発行の『産業経済新聞』が『時事新報』を合同し、『産經時事』に改題。国有地払い下げで取得した東京都千代田区大手町に東京本社ビル(現・東京サンケイビル)が完成。
1956年(昭和31年)3月 - 大阪で夕刊発行を開始。
1958年(昭和33年) - 東京進出により債務過多、経営危機に陥り、住友銀行(現・三井住友銀行)の支援を受け、また財界関係者を首脳に迎える。その引き換えとして論調を右派強硬路線に転換。7月11日、東京発行の『産経時事』を『産經新聞』に改題[注釈 3]。
1959年(昭和34年)2月1日 - 大阪発行の『産業経済新聞』を『産經新聞』に改題(東西で異っていた題号を『産經新聞』に統一[注釈 3])。
1964年(昭和39年) - サンケイスカラシップをフジテレビジョンなどと共に創設し、海外留学生派遣事業を支援した。1989年(平成元年)に終了。
1967年(昭和42年) - フジテレビジョン、ニッポン放送、文化放送とともにフジサンケイグループを結成する。
1969年(昭和44年)
5月 - 題号を『サンケイ』に改題(正式名称は産業経済新聞のまま。但し、欄外の題字と社旗は1962年2月1日付けに先行で「サンケイ(新聞)」のカタカナ題号を使用開始している)
9月1日 - 「サンケイ1000人調査」のタイトルで、連日(週4回)世論調査を開始(経営難により1977年3月に終了)[11]
1973年(昭和48年)12月 - サンケイ新聞事件が起こる。
1986年(昭和61年)
4月1日 - 題字右側にフジサンケイグループのシンボルマーク「目玉マーク」が添付。
10月 - 宮城県仙台市で現地印刷開始。
1988年(昭和63年)5月28日 - 題号を再び漢字の『産經新聞』(正式名称は産業経済新聞のまま)に戻し、全国紙初の本格的カラー紙面を採用する。題号の変更に伴い「週刊サンケイ」を系列の扶桑社に移譲する(通巻号数はそのままで内容をリニューアルし「SPA!」と改題される)。
1991年(平成3年)1月 - 漫画新聞『コミックサンケイ