産経新聞社
1955年3月頃。植字作業室[1]。『サンケイグラフ』1955年1月30日号『週刊サンケイ』1967年8月21日号
1913年(大正2年) - 大阪府西成郡(現在の大阪市西成区)で前田久吉が新聞販売店を創業する。
1922年(大正11年)7月9日 - 旬刊『南大阪新聞』を創刊する。
1923年(大正12年) - 『南大阪新聞』を『夕刊大阪新聞』と改めて日刊とする。
1933年(昭和8年) - 夕刊大阪新聞社から、現在の産経新聞の前身にあたる『日本工業新聞』を創刊する。
1939年(昭和14年) - 『日本工業新聞』の発行元を夕刊大阪新聞社から分社化し、株式会社日本工業新聞社を設立する。
1940年(昭和15年) - 日本工業新聞、大阪毎夕新聞と鉄鋼新聞(現・日刊産業新聞)を合同。同時に両紙の発行会社を吸収合併。
1942年(昭和17年)
『夕刊大阪新聞』と『大阪時事新報』が合併して『大阪新聞』を発刊する。
政府の新聞統制で『日本工業新聞』など愛知県以西の西日本の産業経済関係の新聞社33社が合同し、株式会社産業経済新聞社を設立して『産業経済新聞』を発刊する。
1947年(昭和22年) - 旧鉄鋼新聞社のスタッフが独立し『日刊産業新聞』を創刊。
1950年(昭和25年) - 東京で『産業経済新聞』の印刷と発行を開始して東日本へ進出し、全国紙の基盤を成す。
1951年(昭和26年) - 世界経済新聞社を吸収して合併する。
1952年(昭和27年)
大阪本社が社屋とする産経会館が、大阪市北区梅田二丁目に完成する。後年に大阪サンケイビルとなる。
第1回ミス・ユニバース日本大会を開催。小島日女子を日本代表としてアメリカに派遣する[2]。
1955年(昭和30年)
2月 - 東京支社を分社して、株式会社産業経済新聞東京本社を設立する。信越放送社長・元中部日本新聞社常務勝田重太朗を社長に迎える。
3月10日 - 東京本社が社屋とする東京産経会館が、東京都千代田区大手町一丁目に開館[1]。
11月 - 東京で発行する産業経済新聞が『時事新報』と合同し、題号を『産経時事』とする。
月日未確認 - 『サンケイスポーツ』を大阪で創刊する。
1956年(昭和31年)
9月 - 初のミス・ワールド日本大会を開催。戸倉緑子を日本代表としてイギリスに派遣する[2]。
1958年(昭和33年)
7月 - 東京進出により債務過多、経営危機に陥り、住友銀行(現:三井住友銀行)の支援を受ける。東京の題号を『産經新聞』に変更する[注 2]。
8月 - 前田が社長を退任。富士テレビジョン(現・フジテレビジョン)・文化放送社長の水野成夫を社長、中部日本新聞社社長の与良ヱを副社長に迎える。
月日未確認 - 『日本工業新聞』を復刊する。
1959年(昭和34年)
2月 - それぞれ別法人であった東京と大阪の両本社を合併し、登記上の本店を大阪から東京へ移転して東京を存続会社とし、新生の株式会社産業経済新聞社が発足する。東京本社社長の勝田は退任し信越放送社長に復帰する。
2月 - 東京と大阪の題号を『産經新聞』に統一する。
7月 - アメリカで開かれた第8回ミス・ユニバース世界大会で日本代表の児島明子が優勝する。アジア人初、歴代の欧米美人を超えるプロポーション(97-60-96)[3]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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