産業革命
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この機械製鉄技術やシステムはそのまま蒸気機関や紡績機といった黎明期の産業機械製作に応用され、産業革命の技術的基礎となった[5]
進展
織機・紡績機の改良ジョン・ケイが発明した飛び杼。織布の効率を大幅に向上させ、産業革命の開始を告げる重要な発明となった。水力紡績機を開発したリチャード・アークライト

イギリス産業革命の原動力となったもののうち、もっとも重要だったのが綿織物工業におけるさまざまな技術革新である。こうした技術革新の端緒となったのは、1733年ジョン・ケイが、織機の一部分であるシャトルを改良した飛び杼(flying shuttle)を発明したことである。これにより、手で杼を動かす必要がなくなり、織機が高速化された。これは行程のひとつの改善でしかなかったが、これにより綿布生産の速度が向上したために、旧来の糸車を使った紡績では綿糸生産能力が需要に追いつかなくなった[6]。そのため、旺盛な需要に応じるために1764年にジェームズ・ハーグリーブスジェニー紡績機を発明した。これは、従来の手挽車が1本ずつ糸を取る代わりに、8本の糸を同時につむぐことのできる多軸紡績機であり、のちの改良によってさらに紡げる本数は増えていった[7]。ただしこの段階ではいまだ紡績は人力と熟練に依存していた。ジェニー紡績機は小型であることもあり農村工業地帯に広く普及した。

1770年、リチャード・アークライト水力紡績機を開発した。綿をローラーで引き延ばしてから撚りをかける機械で、ジェニー紡績機のように小型ではなく、人間の力では動かない大型の機械だったため、動力源に水力が使われた。個人の住宅では使用できないため工場を設け、機械を据えつけて数百人の労働者を働かせて多量の綿糸を造り出すことに成功した[8]。これにより大量生産が可能になり、立地に制約がなくなった。しかし、紡糸作業に熟練した労働者が必要としなくなったため、失業を恐れる労働者や同業者などから妨害を受けた。この発明は、本格的な工場制機械工業の始まりとなった。

そしてこれらの特徴をあわせ持ったサミュエル・クロンプトンミュール紡績機が1779年に誕生し、綿糸供給が改良される。すなわち、ジェニー紡績機の糸は細いが切れやすく、水力紡績機の糸は丈夫だが太かったため、細くて丈夫な糸をつくろうとして生まれたのがミュール紡績機であった[9]。ミュールとはラバのことで、要するにウマロバの長所をとったという意味である。

これらの発明によって紡績過程は大幅に改善されたが、織布過程は飛び杼以来目立った改良がなく、生産能力が不足していた。このため、これを受けてエドモンド・カートライト蒸気機関を動力とした力織機を1785年に発明した。これはその名の通り世界初の動力式の織機であり、これによってさらに生産速度は上がった。原綿の供給においても、1793年にアメリカのイーライ・ホイットニーが綿繰り機を発明したことで梳毛が大幅に改良され、大量の原綿が供給されることとなった[10]。紡績過程においてはミュール紡績機は長らく主力であり続けたが、多くの人々によって常に改良がなされており、1825年にリチャード・ロバーツによって完全に自動化された[11]

これらのように、問題点の改良が各地で行われた結果として生産性が加速度的に向上することとなった。問題点の解決が生産余剰を生み出す、または前行程の生産増大を促し生産効率を揚げるという相乗効果の中で、イギリスの綿織物の生産は激増し、品質も改良されて全世界に輸出できるものとなっていった。かつてイギリスの綿織物は製品をインドから運んでいたが、その関係は逆転していく。1802年から1803年にはとうとうそれまでイギリスの主力産業であった毛織物の輸出を上回るようになり[12]、綿織物は新たなイギリスの主力産業となっていった。
製鉄技術の改良1781年完成のイギリス・シュロップシャーの鉄橋

繊維業と並んでイギリス産業革命の推進役となったのが製鉄業である。こちらは綿織物と比較して経済に影響を及ぼしたのが遅く、第二次産業革命とも称される。イギリスではすでに16世紀ごろから鉄製品に対する需要が高まっていたが、当時は木炭を用いていたため、急速に成長する鉄需要に対応するうちに木材が深刻に不足し、17世紀にはロシアスウェーデンから鉄を輸入する事態となっていた。木炭不足に対応すべく、一般家庭の燃料にはこのころから石炭が利用されるようになっていた。イギリスには石炭が豊富に存在したためである。しかし石炭に含まれる硫黄分が鉄をもろくしたため、石炭を製鉄に使用する試みはすべて失敗に終わっていた[13]

18世紀に入り、1709年にエイブラハム・ダービー1世が石炭を蒸し焼きにしたコークスを製鉄に利用するコークス製鉄法が開発されたことで状況は変わったものの、この製鉄法が広く普及するためにはさらに数十年を要した[14]。1735年には彼の息子であるエイブラハム・ダービー2世によってさらに改良が加えられ、1750年ごろからコークス製鉄法はイギリス全土に普及していった。1740年代にはベンジャミン・ハンツマンによってルツボ製鋼法により良質の鋼鉄も作られるようになったが、この鋼鉄は大量生産ができず、鋼鉄を一般的に使用できるようにはできなかった[15]。1760年代にはジョン・スミートンによって高炉用の送風機が改良され[16]、これにワット式蒸気機関を組み合わせることで送風過程はさらに効率がよくなった。ついで1784年にはヘンリー・コートが攪拌精錬法を発明し、これによって良質の錬鉄が大量に生産できるようになった[17]

このような鉄の需要は、初めのうちは生活革命によって使用されるようになった軽工業製品によって牽引されたが、やがて産業革命が進むにつれて、工業機械や鉄道のためにさらなる鉄が必要となっていった。
各種工業の発展モーズリーのねじ切り旋盤

さまざまな産業機械の発明と発展は、その産業機械を生み出す機械工業を誕生させ、さらに機械を生産するための加工技術も発展を続けた。1774年には製鉄業者であるジョン・ウィルキンソンが中ぐり盤を発明し、これによってシリンダーなどの内面の精度が大きく向上した。


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