産業革命
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きっかけは、ブリッジウォーター伯爵フランシス・エジャートンが1761年に建設したブリッジウォーター運河(英語版)である[29]。この運河はブリッジウォーター公の領地であるワースリー(英語版)炭鉱と工業都市マンチェスターを結ぶものであり、大成功をおさめ、マンチェスターの石炭価格が半額に下落した[30]うえに経費も大幅に節約できた。この成功は各地に模倣を生み、1760年代から1830年代にかけてはイギリスにおいて運河時代と呼ばれる一時代が現出した。特に1790年代前半には「キャナル・マニア」と呼ばれる運河建設・投資ブームが巻き起こり、急速に運河の建設が進んだ。この運河網の発達は安定した大量輸送を各地で確保し、産業革命を推進する大きな力のひとつとなった[31]。また、陸路に頼らざるを得ない鉱山などにおいては、17世紀初頭から木製の線路を敷設しその上にトロッコや貨車を走らせることが行われていたが[32]、これも18世紀後半にはレールが鋳鉄製となり、多くの鉱山で使用されるようになっていた[33]。また、1816年にはジョン・マカダム(英語版)によっていわゆるマカダム舗装が実用化され、道路は大きく改良された[34]

しかしこの時点においてはいまだ、交通機関そのものに対する抜本的な改良はなされていなかった。しかし蒸気機関が改良されるとともに、蒸気機関を輸送手段に使用する試みがなされるようになっていった。こうした試みのうち、もっとも早く実用化がなされたのは蒸気船であり、1807年にロバート・フルトンによって河川航行が可能な外輪船が実用化された[35]。外輪船は荒波に弱かったために外洋航行には使用できなかったが、1830年代には改良された外輪船が外洋航行を行うようになる。しかし本格的に蒸気船が使用され始めるのは、1840年代により高速を得られ安定性も高いスクリュープロペラが開発されるまでかかった[36]。また、産業革命期は帆船の改良も進められており、快速帆船(クリッパー)と呼ばれる高速の帆船が登場し帆船が全盛期を迎えるのは、イギリスで産業革命が終わったあとの1850年代以降のことになる[37]。このため、蒸気船が帆船にこの時期とってかわったわけではないことには注意が必要である。

また1804年にはリチャード・トレビシックにより軌道の上を走る蒸気機関車が発明された[38]。この蒸気機関車は実用的なものではなかったが、その後、蒸気機関車はジョージ・スチーブンソンらによって改良され、1825年には世界最初の商用鉄道であるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開通した。さらに蒸気機関車の改良は進められ、1829年にロバート・スチーブンソンの設計したロケット号によって基本的な機構が完成された。翌1830年のリバプール・アンド・マンチェスター鉄道の開業によって、蒸気機関車とそれの走る鉄道というシステムが完成した[39]。蒸気船の普及に時間がかかったのとは対照的に、線路と汽車の初期費用以外全てにおいて同業他社である馬車に勝っていた鉄道は急速に広まった。ベルギー、アメリカに先を越されながらも1830年代後半になるとすでに鉄道網の整備が進み始めており、1850年までには6,000マイルの鉄道が開通した[40]。また、鉄道は時をおかずして諸国にも伝わり、1830年代にはすでにアメリカ・フランス・ドイツ、さらにはロシアなどにおいても鉄道が開通し、1850年ごろにはこれらの国でもかなりの長さの鉄道網が開通していた。これらの移動手段の発達は「交通革命」と呼ばれる。イギリスにおいては鉄道は産業革命の原動力ではなくひとつの結実であり、イギリスは鉄道なしで産業革命を成し遂げた唯一の国家となった[41]。後発諸国の産業革命・工業化においては、鉄道の敷設は前提条件となった。
社会変化と影響

産業革命は1760年代から1830年代までに及ぶ非常に長くゆるやかな変化であったが、産業革命以前と以後において社会の姿は激変していた。農民の比率は減少し商工業従事者が激増したが、中でも鉱工業に従事する労働者の数が大幅に増えた。工業の比率が高まるとともに都市には多くの労働者が集住するようになり、都市化はこのころから徐々に進むようになった。生産システムも、それまでの家内制手工業から工場制手工業(マニュファクチュア)に代わり、都市に大規模な工場を建設して機械により生産を行う、いわゆる工場制機械工業の割合が増加していった。ただし、イギリスにおいても工場制機械工業は1830年代を過ぎるまでは工業生産の主流とはいえず、手工業が各地に残存していたことは特筆されるべきである[42]。また、この流れの中で工業に従事する者の中でも階層分化が起き、工場を所持する産業資本家層と、その工場で働く労働者層が成立した。

産業革命の進展と、それによる工業生産の増大は工場を所持する産業資本家の勢力の増大をもたらし、参政権を求める声も高まっていった。この動きは1832年にホイッグ党のグレイ内閣が、人口の極端に少ない、いわゆる「腐敗選挙区」を廃止するとともにブルジョワ層に選挙権を拡大することにつながった。こうした動きの中で産業資本家層は旧来からの地主貴族層と結合を深め支配層の仲間入りを果たすが、一方で労働者層の不満も非常に高まっていた。労働者の生活水準は非常に低いものであり、また鉱山や工場においては児童労働などの問題も深刻だった。1811年から1812年にかけてのラッダイト運動などの抗議を繰り返すようになった。この資本家と労働者の対立は、産業化が進むにつれてより一層深刻となり、以後の世界政治の重要な底流のひとつとなった。

イギリスの工業生産は最盛期の1820年代には一国で世界の工業生産の半分(50%)を占めるようになり、以後1870年代にいたるまでイギリスは世界最大の工業国でありつづけ、「世界の工場」と呼ばれるようになった[43]

産業革命期の生活水準については、常に論争の種となってきた。特に都市部においては都市開発技術の発展や衛生観念の発展などが人口増加に追いつかず、賃金レベルも低く、産業革命以前と比べて生活レベルが下がったという見解がある一方、輸送コストの低減や特に綿織物の価格の低落による衣料事情の改善などがそれをかなりの部分相殺したという見解もある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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