産業革命
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一部においてはさらにこれが大規模化し、工場に生産者を集中させて生産を行う、いわゆる工場制手工業(マニュファクチュア)に発展するものも出てきた。こういった農村工業の進展はプロト工業化と呼ばれる。毛織物工業で蓄積された資本は、のちに綿織物工業に利用され、産業革命につながったとされる。初期の綿織物工業にはそれほど大きな設備投資が必要ではなかった。毛織物の担い手であった下級地主階層のジェントリおよび、それ以外にも雑多な職業人間の参入が分かっている。彼らの多くは蓄積された資本ではなく、借金によって必要な資金を賄ったといわれ、柔軟な資金供給が当時としては問題であったとも言われる。
労働力1814年当時の鉱夫

18世紀から19世紀にかけて、西ヨーロッパにおいて一連の農業技術上の改革(イギリスでは特に農業革命と呼ばれる)があった。休耕地をなくしたノーフォーク農法の導入、囲い込みによる集約的土地利用などによって、食料生産が飛躍的に伸びた一方で、中小の農民は自営農から賃金労働者に転落した。しかし、賃金労働者となったものの、従来言われたように職を失い都市部に流入したわけではない。

農業革命による新農法は広い土地を必要としたが、依然耕作のための人手も必要としており、自営農であった者たちは同じ土地でそのまま農業労働者となったと言うのが正しい。むしろ食料生産の増加によってもたらされた人口の増加によって、産業革命に必要な労働力は賄われたといえる。

この人口増加は、イギリスに限らず西ヨーロッパ全域で起こっており、人口革命とも呼ばれる。また、このほかにもアイルランドからの人口流入も労働力需要に応えたが、競争にさらされることとなったプロテスタント系イギリス労働者との間に軋轢を引き起こし、1780年にロンドンで発生した反カトリック暴動の原因にもなった。
海外植民地と商業革命

資本の蓄積や人口増加、いずれにせよ、イギリス固有というよりもヨーロッパに共通の事柄であり、現在よく言われるように、産業革命前夜のイギリスとフランスではさしたる差は存在しなかった。むしろ手工業という点ではイギリスよりもヨーロッパ大陸諸国の方が若干発達していたともされる。

フランスで起きなかった産業革命がイギリスで起こった原因は、イギリスにあってフランスになかったもの、つまり広大な海外植民地であった。初期の産業革命で生産された雑工業製品の多くがヨーロッパ外の地域に向けられたことからも産業革命における海外植民地の重要性を見て取ることができる。こうした対外貿易の隆盛によって、イギリス商業革命と呼ばれる急激な商業の成長が起き、イギリスは産業革命に必要な資本の蓄積が可能となった。また、ギルドの廃止など国内商業自体の改革も進んだ。
需要と市場保護

インド産キャラコによって綿織物に対する需要が生み出されたが、イギリスから輸出できる生産品は毛織物程度しかなかったうえ、毛織物はインドはじめ温暖な地方においてはほとんど需要がなかったため、18世紀におけるイギリスの貿易収支は常に大幅な貿易赤字となっていた。これを改善するために綿織物の国内生産が進められるようになった。綿織物産業がおもに成立したのはランカシャー地方であり、ここは東部の毛織物工業地帯と西部の麻織物工業地帯に挟まれて両工業の資本やノウハウ、技術が利用可能な地域だった[3]。こうして生産された綿織物や亜麻と綿の混紡(ファスチャン)は品質がよくなかったために輸出用として大西洋三角貿易に回され、市場を得た綿織物工業は徐々に成長していった[4]。各国で成立した絶対王政における常備軍の誕生は大量かつ統一規格の軍服に関する需要を呼び、さらに生活革命により、その他の雑工業製品に対する需要は飛躍的に大きくなった。これにより工業化がもたらす商品生産能力向上を吸収・消費する国内市場が形成された。
技術力の向上

産業革命の原動力となった蒸気機関や紡績機などの機械は、多くの部品を正確に制作して組み合わせ、狂いなく動作するように仕上げる技術が必要であり、作成には高度な技術力が求められる。こうした多数の部品を組み合わせ正確に動作させる技術は、時計産業の発達によってもたらされた。時計は多数の部品を正確に組み合わせないと動作しない高度な機械製品であるが、18世紀後半にはジョン・ハリソンクロノメーターの開発に代表されるように時計制作技術が長足の進歩を遂げており、イギリスをはじめとしてフランスやスイスには時計を分業によって制作できる高度な技術を持った職人集団が成立していた。この機械製鉄技術やシステムはそのまま蒸気機関や紡績機といった黎明期の産業機械製作に応用され、産業革命の技術的基礎となった[5]
進展
織機・紡績機の改良ジョン・ケイが発明した飛び杼。織布の効率を大幅に向上させ、産業革命の開始を告げる重要な発明となった。水力紡績機を開発したリチャード・アークライト

イギリス産業革命の原動力となったもののうち、もっとも重要だったのが綿織物工業におけるさまざまな技術革新である。こうした技術革新の端緒となったのは、1733年ジョン・ケイが、織機の一部分であるシャトルを改良した飛び杼(flying shuttle)を発明したことである。これにより、手で杼を動かす必要がなくなり、織機が高速化された。これは行程のひとつの改善でしかなかったが、これにより綿布生産の速度が向上したために、旧来の糸車を使った紡績では綿糸生産能力が需要に追いつかなくなった[6]。そのため、旺盛な需要に応じるために1764年にジェームズ・ハーグリーブスジェニー紡績機を発明した。これは、従来の手挽車が1本ずつ糸を取る代わりに、8本の糸を同時につむぐことのできる多軸紡績機であり、のちの改良によってさらに紡げる本数は増えていった[7]。ただしこの段階ではいまだ紡績は人力と熟練に依存していた。ジェニー紡績機は小型であることもあり農村工業地帯に広く普及した。

1770年、リチャード・アークライト水力紡績機を開発した。綿をローラーで引き延ばしてから撚りをかける機械で、ジェニー紡績機のように小型ではなく、人間の力では動かない大型の機械だったため、動力源に水力が使われた。個人の住宅では使用できないため工場を設け、機械を据えつけて数百人の労働者を働かせて多量の綿糸を造り出すことに成功した[8]。これにより大量生産が可能になり、立地に制約がなくなった。しかし、紡糸作業に熟練した労働者が必要としなくなったため、失業を恐れる労働者や同業者などから妨害を受けた。この発明は、本格的な工場制機械工業の始まりとなった。

そしてこれらの特徴をあわせ持ったサミュエル・クロンプトンミュール紡績機が1779年に誕生し、綿糸供給が改良される。すなわち、ジェニー紡績機の糸は細いが切れやすく、水力紡績機の糸は丈夫だが太かったため、細くて丈夫な糸をつくろうとして生まれたのがミュール紡績機であった[9]。ミュールとはラバのことで、要するにウマロバの長所をとったという意味である。

これらの発明によって紡績過程は大幅に改善されたが、織布過程は飛び杼以来目立った改良がなく、生産能力が不足していた。このため、これを受けてエドモンド・カートライト蒸気機関を動力とした力織機を1785年に発明した。これはその名の通り世界初の動力式の織機であり、これによってさらに生産速度は上がった。原綿の供給においても、1793年にアメリカのイーライ・ホイットニーが綿繰り機を発明したことで梳毛が大幅に改良され、大量の原綿が供給されることとなった[10]。紡績過程においてはミュール紡績機は長らく主力であり続けたが、多くの人々によって常に改良がなされており、1825年にリチャード・ロバーツによって完全に自動化された[11]

これらのように、問題点の改良が各地で行われた結果として生産性が加速度的に向上することとなった。問題点の解決が生産余剰を生み出す、または前行程の生産増大を促し生産効率を揚げるという相乗効果の中で、イギリスの綿織物の生産は激増し、品質も改良されて全世界に輸出できるものとなっていった。かつてイギリスの綿織物は製品をインドから運んでいたが、その関係は逆転していく。1802年から1803年にはとうとうそれまでイギリスの主力産業であった毛織物の輸出を上回るようになり[12]、綿織物は新たなイギリスの主力産業となっていった。
製鉄技術の改良1781年完成のイギリス・シュロップシャーの鉄橋

繊維業と並んでイギリス産業革命の推進役となったのが製鉄業である。こちらは綿織物と比較して経済に影響を及ぼしたのが遅く、第二次産業革命とも称される。イギリスではすでに16世紀ごろから鉄製品に対する需要が高まっていたが、当時は木炭を用いていたため、急速に成長する鉄需要に対応するうちに木材が深刻に不足し、17世紀にはロシアスウェーデンから鉄を輸入する事態となっていた。木炭不足に対応すべく、一般家庭の燃料にはこのころから石炭が利用されるようになっていた。イギリスには石炭が豊富に存在したためである。しかし石炭に含まれる硫黄分が鉄をもろくしたため、石炭を製鉄に使用する試みはすべて失敗に終わっていた[13]

18世紀に入り、1709年にエイブラハム・ダービー1世が石炭を蒸し焼きにしたコークスを製鉄に利用するコークス製鉄法が開発されたことで状況は変わったものの、この製鉄法が広く普及するためにはさらに数十年を要した[14]


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