産業化
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3.重工業から開始、西南ドイツやプロイセンで展開1835年ニュルンベルク - フュルト
ロシア1890年代1.農奴解放令(1861年)による労働者の創出
2.フランス資本の導入と国家の保護により1890年代に本格化1838年ペテルブルク - ツァールスコエ・セロー
日本1890年代1.1870年代の政府の殖産興業政策が契機
2.綿織物工業から開始
3.日清戦争前後、軽工業中心に発達(下関条約賠償金も投入)1872年新橋 - 横浜

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イギリスイギリスにおける工業化の詳細については「産業革命」を参照

最初、織布の段階で起きた機械化が、紡績の機械化、繊維工業向けの機械産業の発生、機械製造資材の鉄を作る製鉄業、燃料となる石炭を調達する鉱業、原材料などを運送する鉄道産業などに波及し、工業化が始まった。
ドイツ

ドイツ関税同盟などを背景に経済的な領域を確立したドイツでも工業化が起きた。イギリスの例と対比されることも多い。
銀行資本の出資による積極的な拡張投資:ハイペースな事業拡大

独占企業の発生:シェアと利潤の確保

研究に基づく技術革新:科学者との協力で技術を生み出す

化学や軍事の分野で成果を挙げ、イギリスと伍する大国になり覇権を争うこととなる。
アメリカ

南北戦争での勝利後、工業地帯である北部の保護貿易による躍進で工業化が進んだ。広大な大陸の東西両端に大都市があるアメリカでは大陸横断鉄道建設のブームにより産業化が進行した。また、各産業で独占企業が発生した。また、実業家への賞賛と羨望が、有能な人間を国内のみならず海外からも惹きつけたことが発展の大きな原動力となった。

アメリカでは、数々の技術革新がおき、新産業が次々に生まれた。

第一次世界大戦から黄金の1920年代に掛けてアメリカの重化学工業化は大きく進展した。世界恐慌により、工業は大きく衰退したが第二次世界大戦の軍需により復活。戦後間もない頃において、アメリカ工業は圧倒的なシェアをほこった。

新技術の発達で工業化が進展したが、1970年代スタグフレーション1980年代初めの高金利政策により壊滅的な打撃を受け、工業は競争力を喪失した。

現在においては、コンピュータ航空機などの一部工業で競争力を有するものの、多くの工業製品を輸入しており、脱工業化が進展している。
日本

日本での産業革命明治維新後の、政府の殖産興業政策によって進められ、1890年代から本格的に開始された(第一次工業化)。軽工業の典型が富岡製糸場1872年操業開始)、重工業の典型が八幡製鉄所1901年操業開始)である。19世紀末から20世紀初頭にかけて、安価で品質の安定した日本の軽工業製品の輸出が拡大していった。欧州1914年第一次世界大戦が始まると造船業などが活況を呈し、重化学工業化が進展した。

世界恐慌以後は、独自の重化学工業化政策を打ち出した。第二次世界大戦に伴う空襲などの打撃を受けたものの、こうした政策は戦後高度成長の礎を作った。

第二次世界大戦後に国内への投資集中によって、1950年代後半から1960年代にかけて高度経済成長が始まり、世界的にも驚異的な成長を遂げた(第二次工業化)。農業の解体[3]はここで最終段階へ入り、1980年代には世界で最も競争力のある工業国となった。

また、その社会制度も規格化や画一化の進展した工業社会となった。

21世紀に入った現在は生産拠点を中国東南アジアに移転する傾向が強まっており、産業の空洞化知的財産の流出が懸念されている。
ロシア(ソビエト)

ロシア帝国では農奴制に依存した貴族の大土地所有が続き、農業生産性の低さもあって工業化が遅れていた。1861年農奴解放令をきっかけに農村の余剰人口は都市への流入を開始し、露仏同盟を基盤としたフランス資本の導入(シベリア鉄道の建設など)もあって、19世紀末に工業化が始まったが、20世紀初頭の時点においてもその生産力は西欧やアメリカなどの先進工業国に大きく水をあけられていた。ただし、1905年ロシア第一革命で都市労働者と兵士の合同評議会であるソビエトが組織され、ロシア社会民主労働党社会革命党(エス=エル)などの社会主義勢力の支持基盤となった事は、その後のロシア政治にとって大きな意味を持った。

第一次世界大戦での苦戦から発生した1917年ロシア革命で権力を奪取したボリシェビキ(後のソ連共産党)政権はペテルブルクモスクワの労働者(ソビエト)を支持基盤とした政府であり、その産業政策は工業化を重視するものとなった。戦時共産主義政策により工場の接収・国有化が行われたが、ロシア内戦による国土の荒廃、および旧帝国の先進工業地域だったポーランドの独立などにより、新生ソビエト連邦(ソ連)の工業生産力は戦前の水準に遠く及ばなかった。

経済再建に向け、ソ連の指導者だったウラジーミル・レーニンは自らの掲げる共産主義化を一時緩める決定を行い、1921年からNEPネップ)と呼ばれる限定的な自由化政策を実施した。これによりソ連国内では「ネップマン」と呼ばれる小資本家が復活したが、続く最高指導者のヨシフ・スターリン1928年から第一次五カ年計画を決定し、ソ連経済は強力な国家統制と重工業中心の特色を持つ体制へ引き戻された。この時、広大なソ連国内に点在する炭鉱や鉄鉱山を鉄道で有機的に結びつけるコンビナート方式が考案され、国土開発と一体となった工業化が進展した。資本主義国の経済が混乱した世界恐慌の影響を免れた幸運もあって、ソ連経済は粗鋼生産などで世界のトップクラスへと躍進した。

第二次世界大戦独ソ戦)とそれに先立ついくつかの戦争・占領により、ソ連は特に西部地域で大きな経済的・人的損失を被り、ウクライナなどの工業先進地域の施設は破壊されたが、その賠償として旧ドイツ領内の設備や技術を接収した。戦前の五カ年計画による計画配置に続いて戦時疎開で重工業産業がウラル山脈地域や中央アジアなどにも展開され、戦後のシベリア開発の進展もあって、レーニン時代に唱えられた「全国電化」以来の課題だったソ連全土での工業化は大きく進展した。

対外面でも、ドイツ軍を追って占領した東ヨーロッパ諸国ではそのまま共産党政権を成立させ、1949年成立の経済相互援助会議(COMECON)により自国の勢力圏として確保した。これによりソ連は新たな技術と市場を入手し、アメリカと世界を二分する先進工業国とみなされるようになった。同年には中華人民共和国が成立し、ソ連は中ソ対立によって技術者の引き揚げを実施した1960年代初頭まで中国の工業化に大きく貢献した。

しかし、ノルマ重視や官僚主義の横行により統計上の成果と実体経済の混乱というギャップは埋まらず、核兵器などの強力な装備を必要とするソ連軍を支えるための軍産複合体が政策決定に大きな影響力を維持するソ連の政治体制も変わらなかったため、戦後の五カ年計画でたびたび目指された軽工業の振興や生活必需品の供給は大きな成果を得られず、特に質の面でソ連は先進資本主義諸国に大きく水をあけられた。1957年に実現した世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げはソ連の工業発展の先進性を世界にアピールし、アメリカでのスプートニク・ショックを引き起こしたが、ソ連国内では衣料品などの配給制が続くというアンバランスさが続いていた。


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