生稲晃子
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原作者のあだち充が生稲を推したこともあり大会関係者から「たぶん優勝は君になる」と優勝内定を知らされていたが、生稲が事務所に所属していることが問題となり、発表当日になってこの話は流れてしまった[15][注 2]。このとき居合わせたキャニオン・レコードの関係者から「おニャン子クラブのオーディションを受けてみますか?」と声を掛けられる[19]。優勝内定から一転、落選したショックから直ぐに次に繋がる話に飛びつく思考に切り替えることが出来ず、即答は避けて一旦保留とする返答のみをして帰宅した。

おニャン子クラブのファンだった兄はオーディションの話に乗り気だったが、当の生稲本人は「何で売れるの?普通の子じゃない。」と当初はおニャン子をあまり好意的に見ていなかった[20]。兄がおニャン子の『セーラー服を脱がさないで』のレコードを嬉しそうに買ってきた際は、「何つーものを買うのよ」と怒る程だった[21]

二の足を踏んでいた生稲であったが、当時生稲がファンだった「トシちゃんのレコードをあげるから」とキャニオン関係者から言われたため、ためしに受けてみる事になった[15]。また「(夕やけニャンニャンに出演時は)時給5千円」の一言にも魅力を感じたという[22]
おニャン子入りと大学受験

1986年6月、『夕やけニャンニャン』内のオーディションコーナーで合格し、1986年6月13日に、おニャン子クラブの会員番号40番としてデビュー[3]。10月、渡辺満里奈のデビュー曲「深呼吸して」で工藤静香と共に「with おニャン子クラブ」としてバックコーラスで参加[23]。11月1日、おニャン子クラブの6枚目のシングル「恋はくえすちょん」で、メインボーカルとしてフロント4人の中に入る[24]。12月、ローソンからあげクンのCMに単独で出演[25]。おニャン子クラブ4枚目のアルバム『SIDE LINE』に収録されている「ハートに募金を」がBGMとして使用される[注 3][26]。デビュー以降多くのファンを獲得し、当時のおニャン子クラブにおいてトップの人気を誇った"W渡辺"(渡辺美奈代・渡辺満里奈)の間に割って入る存在とされた[27]

高校での成績は優秀だったものの、芸能活動をしているという理由で大学入試の際に学校からの推薦が得られなかった。1987年になると、芸能活動を控え、『夕やけニャンニャン』にも約1ヶ月ほど出演せず受験勉強に専念した。1987年4月に恵泉女学園短期大学(英文科)に入学。

受験を終えて芸能活動を再開。新ユニットうしろ髪ひかれ隊のメンバーに工藤静香・斉藤満喜子と共に抜擢される[28]

1987年5月7日、『うしろ髪ひかれ隊』は『時の河を越えて』でレコードデビュー[29]。同曲及びc/w『うしろ髪ひかれたい』は、アニメハイスクール!奇面組』の主題歌とエンディング曲に起用された。1987年5月18日付のオリコンシングルヒットチャートで初登場第1位を獲得[30]。音楽番組にも多く出演し、順風満帆なスタートを切った。これを期に、メンバー3人揃って芸能プロダクション「プロダクション尾木」に移籍。
おニャン子解散・うしろ髪活動休止

もともと生稲は長く芸能活動を続ける意向は強くなく、将来的に堅実な学校教諭になる道を考えていた。そのため学業を疎かにせず、大学進学後も意欲的に講義を受けていた[31]。『うしろ髪ひかれ隊』としての活動はおニャン子クラブの活動終了とともに終える青写真であり、同時に芸能界も引退する心積もりであった。しかし、スタッフの「やめようと思っていたけど、売れたんでこのまま続けるから」の一言で、1987年9月20日のおニャン子クラブ解散後も「うしろ髪」としての活動は続行された[32]

それだけにおニャン子解散時の精神状態は不安定であった。解散特番のラジオの終盤では夕ニャンのスタッフに「もう「深呼吸して」は3人じゃ歌えないんだな…」としみじみ言われたことを涙ながらに語っていたが、聞き役の渡辺満里奈に叱責され、我に返っていた。

おニャン子クラブ解散後も、うしろ髪ひかれ隊として各種メディアへの出演や地方キャンペーン、コンサートなど多方面に活動をしてきたが、1988年5月をもって活動を休止する[33][34]
ソロアイドル時代

1988年5月21日に『麦わらでダンス』(フジテレビ系放映アニメ『ついでにとんちんかん』主題歌)でソロデビュー[35][36]。オリコン週間チャート8位[37]となり、『ザ・ベストテン』や『歌のトップテン』『夜のヒットスタジオ』にも出演するなど自身最大のヒット曲となる。7月にはフジテレビ系ドラマ『あそびにおいでョ!』で連続ドラマに初出演[38]。アイドル誌の表紙やグラビア特集の他、写真集も出版するなどグラビアアイドルとしても活動した。9月リリースのセカンドシングル『Virgin少年に接吻を』がオリコン週間チャート9位に入る[37]。11月にはスタジオ・アルバム『「生稲」De-Dance』がオリコンアルバムチャート11位となった他[39]日本青年館大阪厚生年金会館にて初のソロ・コンサートも開催する[40]

1989年4月、初単独パーソナリティ番組、ニッポン放送生稲晃子 デートはこれから』開始[41]。7月、恵泉女学園短期大学を卒業[42]。8月にはセカンドアルバム『日本「生稲」紀行』リリース。このアルバムを引っさげて、サマー・コンサート・ツアー(1989年8月16日 - 8月28日、全国8ヶ所)を開催した[43]。またフジテレビ系ドラマ『ゴメンドーかけます』に出演[44]
女優・タレントとして

90年代以降は女優として多数のテレビドラマや映画、舞台に出演。タレントとしてもバラエティ番組などで活動した。1996年にはセミヌード写真集も出版している。

2001年4月、永らく所属していたプロダクション尾木より独立。女優としてCBC制作のドラマ『キッズ・ウォー』シリーズに長く主演したほか、テレビ朝日の人気時代劇暴れん坊将軍』にはVIIシリーズからVIIIシリーズ第1話は魚屋兼岡引・おぶん、VIIIシリーズ第2話から800回スペシャルは江戸町火消しめ組の頭長次郎(山本譲二)の妻・おぶんとして出演していた。古典芸能に造詣を持ち、NHKの『日本の古典芸能』『芸能花舞台』の司会も務めた(毎回和服姿で番組を進行)。

2003年にCM制作会社プロデューサー・佐山智洋と結婚(結婚後、鉄板焼き店経営)。2005年10月、妊娠していることが判明、「思っていたよりつわりがひどかった」とのこと。2006年3月に第1子(長女)を出産。

2006年からは芸能事務所・株式会社ポートレーブに所属。家事の都合や子育てに支障が出ないスケジュールを組んでもらい、主に女優やレポーターなどの仕事を中心にしていた。


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