生田長江
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一高時代から雑誌へ投稿し始め、大学時代の1904年には上田敏馬場孤蝶の『藝苑』誌の同人となり[1]、上田から「長江」の号を貰った。

1906年(明治39年)(24歳)、東大を卒業し、1907年、鳥取県の亀田藤尾と結婚して与謝野鉄幹晶子夫妻の隣に暮らし、麹町区飯田町にあった成美英語女学校の英語教師を、1909年の閉鎖まで勤めた。

この頃の数年間、女性の文学の振興に努めた。1907年夏、一高以来の付き合いである森田草平と、成美英語女学校の経営主、九段中坂下(現・千代田区九段)のユニヴァーサリスト教会で、女性のための文学講習会『閨秀文学会』を開いた。馬場孤蝶、与謝野晶子、赤司繁太郎らが講義し、大貫かの子青山菊栄平塚らいてうらが聴講したが、年内に閉講した。

1909年から、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を翻訳し、1911年年初に刊行した。その9月に創刊した平塚らいてうらの『青鞜』誌を、1913年まで後押しした。生田春月佐藤春夫を門弟とした。

1914年(大正3年)(32歳)、初めは森田草平と共同編集で、『反響』誌を創刊した。翌年の同誌の廃刊後、ニーチェ全集の翻訳を志し、1916年から1929年までに、全10巻を出版した(訳書の項参照)。

また、1914年頃から堺利彦大杉栄と交わり、批評の目を社会問題へも広げた。1916年、『自然主義前派の跳梁』(『新小説』1916年11月)などで、『白樺派』を論難した(武者小路実篤は『時事新報』11月5日-11月7日に「生田長江氏に戦を宣せられて一寸」を発表した)。1919年、資本論第一分冊を翻訳出版するなど、社会主義に近付いて、1923年頃から離れた。1919年に島田清次郎の『地上』を、1921年に、高群逸枝の『日月の上に』を評価したが、師弟関係は結ばなかった。

1922年(大正11年)(40歳)、『釈尊傳』創作の準備を始めた。1925年から1930年まで、鎌倉由比ヶ浜に住んだ。ハンセン病が、容貌が崩れるまでに進んでいた[2]

1929年(昭和4年)(49歳)、ニーチェ全集を完結し『釈尊傳』の執筆を始め、1934年の失明にひるまず、1935年、『釈尊上巻』を刊行した。また、『新訳決定普及版 ニイチェ全集 全12巻』を1936年にかけて出版した。

1936年(昭和11年)新春、渋谷区の自宅で亡くなった。聖伝院長江棹舟居士。喜福寺(現・東京都文京区本郷5丁目)で葬儀を行い、鎌倉長谷寺の高台の墓域に、1917年に亡くなった藤尾夫人の遺骨と共に埋葬した。
文業

各列の → は新編再刊・復刻。
評論

『ニイチェ語録』、玄黄社(1911年)

『最近の小説家』(
夏目漱石森?外田山花袋島崎藤村泉鏡花徳田秋声真山青果)、春陽堂 現代文芸叢書8(1912年)→ 講談社 日本現代文学全集46(1980年)に収録

『芸術家と芸人』(社会問題を多く扱う)、日月社 現代百科文庫 文芸思潮叢書8(1914年)

『文芸評論』、日本書院(1914年)

『最近の文芸及び思潮』(第1評論集、森田草平島崎藤村夏目漱石田山花袋正宗白鳥論と社会評論)、日月社(1915年)

『徹底的人道主義』(第2評論集)、聚英閣(1920年)

『反資本主義』、良書普及会(1921年)

『婦人解放よりの解放』、表現社(1921年)

『ブルジョアは幸福であるか』(第3評論集)、南天堂出版(1923年)→ 新学社 近代浪漫派文庫14(2006年)に一部収録

『超近代派宣言』(第4評論集)、至上社(1925年)→ 日本図書センター 近代文芸評論叢書2(1990年)

『宗教至上 - 反宗教運動への応戦及び挑戦として - 』(第5評論集)、新潮社(1932年)
没後

『東洋人の時代』 佐藤春夫編、道統社(1941年)

創作

『軒昂』 - 生田長江・川下喜一・
森田草平著:『草雲雀』、服部書店(1907年)中の一篇

『円光以後』(第1脚本集)、漉t社(1919年)

『環境』(原題『犯行』)(小説)、新潮社(1920年)→ 世界文庫 部落問題文芸作品選集15(1974年)

『落花の如く』(長編小説)、天佑社(1922年)

『簒奪者』(第2脚本集)、聚英閣(1922年)

『わが生活より(作為と真実)』前編、聚英閣(1928年)

『釈尊上巻』、香風閣(1935年)

訳書


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