しかしその後、生田は芸者出身の女性との婚姻許可を海軍に届出するが受理されず憤慨。また英雄扱いされた反動で海軍内部の冷やかな扱いや、腰を痛めていた事もあり、東郷平八郎にも諭されるが、1932年12月15日付で予備役に編入され海軍を退官した。退官後は、大西瀧治郎の計らいで逓信省航空局の航空官として航空行政に携わった。1942年再招集されたが、軍籍のまま航空官として務め、終戦時には少佐に進級している[1]。
戦後は魚屋となり、その後千葉県船橋市に保育園「社会福祉法人 あけぼの福祉会」を開設。「すべては愛」をモットーに幼児教育に努めた。生田は園生から「お父さま先生」と呼ばれて慕われていた[1]。1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に改進党公認候補として全国区で出馬、落選した[2]。
2002年2月22日、心不全により死去。この日はロバート・ショート撃墜からちょうど70年目の日であった[3]。告別式には卒園生が多数参列した[3]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 公式記録は、生田を含む戦闘機3機、艦攻3機による共同撃墜
出典^ a b c 神立尚紀 (2022年6月28日). “「日本初の敵機撃墜」で時代の寵児となるも、周囲の「嫉妬」に苦しめられ海軍を去った「撃墜王」”. マネー現代. 2022年7月4日閲覧。
^ ⇒第3回参議院議員通常選挙全国区 選挙ドットコム
^ a b 神立尚紀 (2020年2月22日). “戦争秘話…敵機撃墜第1号となった戦闘機乗り「波瀾万丈過ぎる人生」”. 現代ビジネス. https://gendai.media/articles/-/70470?page=7
参考文献
神立尚紀「生田乃木次」『零戦最後の証言2』光人社、2000年 ISBN 978-4769809654
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