生天目仁美
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専門学校時代はミュージカル科ということもあり、周囲の皆は小さい頃からピアノを習っていたり吹奏楽部に所属していたりと何かしらの音楽活動を経験していた人物がほとんどだった[14]。全く音楽の経験がないまま入学した生天目はスタートの時点で劣等感を感じ、ついて行けないこともたくさんあったという[14]。一番苦手だったものが楽典と呼ばれる音楽の歴史、楽譜の読み方などで、長調、短調などが分かりにくかったという[14]。その他には入学当初は皆の前で歌うことも少し恥ずかしかったとも語っているが、ダンスはそれなりにこなすことができており、特別うまくはなかったが、置いていかれるほどではなかったと語る[14]。同時に色々嫌になり、母に「学校を辞めたい」と漏らしたこともあり、その時に母が「行きたくないんだったら辞めたらいいんじゃない。明日退学する?」とあっさりと受け入れられてしまったため、誰にも芝居を強要されている訳でもなく、誰かに「辞めてください」と言われもおらず、「すべて自分次第で決まることなんだ」と思ったという[17]

専門学校時代より、さまざまなオーディションに参加。専門学校時代に職業としての声優を知ったという[18]ラジオSOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン』内で、声優志望者によって結成された「ドリカンクラブ」の一員として、田村ゆかり堀江由衣浅川悠らと短期間活動していた[注 1]

2年間学ぶなかで、芝居のレッスンはほとんどなく、週に1回1時間だけの芝居のレッスンが一番好きだった[14][18]

2年終了後、芝居を勉強したくなったため、学校の教師達に「劇団に入りたいんです」と話をていたところ、「何を言ってるんだ」という感じだった[14][18]

専門学校で学んでよかったことは芝居をに出会えたことで、「もっとやりたい」と思わせてくれたことは大きいと語る[14]。あとは、皆で一つのものを作るということを考えさせられ、同じ目的、同じ方向を向いている人物達が集まっていたが、色々な考えがあり、刺激になった[14]。専門学校に行っていたところ、音楽を学んでいた人物、色々な地域から上京して学びに来ていた人物ばかりでその環境は新鮮だった[14]。そういう出会いがあったおかげでクラシックも少し興味を持って聴くようになったり、友人が薦めてくれたミュージカルなどを観たりするようになった[14]
キャリア

卒業後は、映画『Shall we ダンス?』に出演していた柄本明の芝居に感銘を受け、「劇団はどこも厳しくて大変。それなら好きな役者さんのいるとこに行きたい」と思うようになり劇団東京乾電池の養成所を受験していた[14][19]。両親もその頃は寛容で、実家にいたためまだ安心だったのかもしれないという[19]。養成所の定員が40名で受験者が400名ぐらいいたと聞いており、合格するとは思っていなかったという[19]。その時はオーディションをする形で、審査員が誰かいるかも全く知らない状態で5人1組で会場に入ったところ、柄本が真ん前におり、「何だか怖い」と思った[19]。養成所に一緒に入所した仲間の中では生天目は一番年下で一番年上の人物は一回り上であった[19]。その時は一番年上の人物とは、今までの環境からは、同期で一緒に芝居をするということは思いもしなかったことから新鮮な感じであったという[19]

最初のレッスンの際、柄本が来ていた時、皆で円になり柄本の話を聞いていたのだが、最初に「芝居をやる奴なんて、お前らみんな○○なんだよ」と言われ、凄くショックを受けていた[19]。その後、「お前ら『がちょーん』って言ってみろ」と急に言われ、初めは皆シーンとしてしまったが、順番に円の中央に進み、それぞれが『がちょーん』をしていた[19]。柄本は「違う」とだけしか言わず、生天目たちには何が違うのか分からず、その後、何人かがした後に、柄本が「違うんだよ。こうだよ」と言って、『がちょーん』をしてくれたが、全く違いが分からなかったという[19]

この養成所では「こうしろああしろ」と言われることもなく、「毎回毎回違う」と言われる稽古が続けられ、劇団東京乾電池に入り一番感じていたのは、「自分で考えることが大事なんだ」ということだったという[20]。当時は曖昧な気持ちを持ち続けながら稽古をしてきたが、ある日稽古に顔を見せていた柄本に止められて、同じシーンを3度演じるように言われた際、演じる度に「今のは分かっていない」、「ほら、今のは分かってた」と言われ[20]、「芝居に正解はないんだなぁ」、「きっと、私は、今まで答えを出すことばかりにとらわれていたのかもしれない」ということに気が付いたという[20]

1年間養成所に学んだ後の卒業公演で選ばれ、1998年に劇団東京乾電池に劇団員として入団し、女優として活動する[7][20]。当初は全く分からず、落選してしまった人物のなかでとてもおもしろい人物もおり、「この違いは何なのだろう」と思ったという[20]。ある時劇団員の先輩に、生天目のオーディション時のことを聞いたことがあったが、その先輩は、「この子受かるだろうな」と思ってくれていたようであったという[20]。2009年時点で声優の世界におり、他の劇団出身の人物、劇団の人物と仕事をさせてくれる機会があるが、色々なことが曖昧な中でしてきたため、「決められた表現というのは難しいな」と思うこともある[20]。たまに「劇団出身だからすごいんでしょ」と言われることもあるが、前述のとおり曖昧な中で生きてきただけのため、すごいことなんて何もないと感じていたという[20]。初仕事は養成所のオーディションの手伝い[20]。劇団で舞台をしていた頃に先が見えなくなり、アルバイトをして、チケットノルマを払い、ステージに立ち、舞台は客との距離は近く、臨場感あることがとても楽しかった[18][20]。しかし一つの小屋の中で、芝居をし続けていくことに、「これでいいのかな」と思い始めてこれでは「自分は役者」と言えなかったと語る[18][20]。劇団東京乾電池には養成期間も含めて4 - 5年在籍した[20]。その間に「お芝居では食べていけない」という現実があって両親からも「そろそろちゃんと就職したら」という話もあった[20]。劇団という環境に甘えているところもあり、「このままじゃいけない」と思い始める[20]

ある時、劇団仲間と話をしてある番組出演していた舞台役者の批判を聞いて「あ、やめよう」と決める[20]。色々な事に興味があり、「色んな事に挑戦できる世界はないかな・・・?」[21]、「自分の世界を広げたい」、「じゃあ、私がお芝居で生活する方法は」と考えていたところ声優業界に辿り着いていたという[18][22]。劇団が持つ特有の閉鎖性のようなものに少し抵抗があったかもしれないといい、劇団の中でも劣等生という意識がとても強かった[23]。稽古中に演出をしている人物が注意したり、怒ったりというタイミングがあり、積み重なってきたものが爆発する瞬間、大体その瞬間に居合わせしまうことが多かった[23]。怒られている時、周囲の皆が安心して行く空気がとても怖かったという[23]。そんな中で何年も続けてこられたのは劇団の柄本、ベンガルの芝居を間近で見られるというのはとても大きな財産で、そういう部分が、劇団にいる意味だったような気がしていた[23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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