生命保険
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保険料は、保険金にそなえ予定利率による運用される部分(純保険料)とは別に、保険会社の経費として保険会社の収入となる付加保険料が含まれているからである。 貯蓄性について確認する場合、あくまでも払い込んだ保険料の総額と解約返戻金を比較するしかない。死亡保険を含んだ契約で利鞘を稼ぐ代表的な方法として下記の3種類があるが、いずれも最大で長期の銀行定期預金程度の利回りしか得られない。保険は貯蓄目的ではなく、あくまでも上記の3項目の目的に沿って、保険の目的を考えることが重要である。

生命保険の保険料は、保障の期間中同額の全期型と一定期間毎に保険料が上がる更新型がある

保険料金額は、月払より年払、年払よりは一括納金(全期前納)の方が、訪問集金より口座振替の方が安くなる

個人で加入するより勤務先の企業などの団体扱(月払)の保険があれば、後者の方が保険料も安くなる

解約・減額は外交員や営業所以外にもコールセンターなどの窓口でやってもらう方法もある

保険料が払えなくなっても、返戻金がある種類の保険であればそれを原資にして保障を継続することが出来る(保険期間を変えずに保険料を少なくする払済保険、保険金額を変えずに期間を短くする延長定期保険など。但し、付随していた特約は自動的に解約となる)

保険金の請求事由(死亡等)が発生しても、直ちに保険金の給付が受けられない場合がある。そのため、大金が必要なとき(葬儀等)に保険から現金が用立てられないといったトラブルが発生することがある。保険金の給付までにかかる期間等は加入時に確認する必要がある。

入院に関する保険金の給付に日数がかかった場合、給付時までに容態が回復したりすると、その状態に応じて給付が減額されることがある。そのため、即時給付の保険と、給付までに日数がかかる保険の場合で、給付額が異なってくる場合がある(即日給付される保険であれば、後日回復したからといって給付額の減額(返金)を求められたりすることは通常ない)。これもよくトラブルの原因になるので、よく確認すべきである。

生命保険の歴史
生命保険の始まり

生命保険契約の形態は1400年代イタリアで登場し、当初は奴隷運搬の海上保険の形態として登場した[6]

17世紀イギリスでは、セントポール寺院の牧師たちが葬式代をまかなうために、お互いにいくらかずつ出し合って積み立てていったといわれる(香典前払保険・香典前払組合)。ただし、これは年齢に関係なく同じ金額を支払ったため、高齢者は比較的少ない保険料で保険金を受取ることができた。しかし、次第に若者の不満を買ってしまったため、10年ほどでなくなったとされる。

この問題を解決するきっかけを作ったのが、「ハレー彗星」で有名な天文学者エドモンド・ハリーである。彼は実際に調査して人間の寿命を統計化した生命表を作成した。それは年齢ごとに生存している人死亡した人の割合をまとめた統計データである。母集団が大きな統計は、「大数の法則」により、年齢ごとの亡くなる人数(死亡率)を導くのに便利であった。そして生命表ができると、各年齢ごとに保険料を払う者の人数と亡くなる(保険金を受け取る)者の人数が推定できるようになった。そこで死亡率に応じて保険料に差をつけることが考えられ、18世紀のイギリスで死亡率に基づいた保険料を集める制度ができた。

ただし、この生命表に基づく計算は、戦争地震等の大規模災害による大量死にまで対応できるものではない。このため、現在の生命保険の多くは、戦争・災害に関する免責事項を設けている。
近代的生命保険の成立

生命保険では、統計に基づいて、年齢ごとの死亡率に応じた保険料を設定することで、保険会社が受け取る保険料と保険会社によって支払われる保険金が均衡する仕組みになっている。契約者が支払う保険料は、年齢ごとの死亡率に応じた保険料の合計を期間全体で平準化した金額となるのが一般的である。

現在の近代生命保険の発祥は、1762年にイギリス・ロンドンに設立されたエクイタブル生命(en:The Equitable Life Assurance Society)である。英国の数学者、ジェームズ・ドドソン(英語版)はエドモンド・ハリーの生命表を活用して確率に応じた適正な保険料による生命保険の理論を生み出し、エクイタブル生命の設立を企図した。

死亡率に応じて保険料を徴収すると年々保険料が上がっていくことになる。これを自然保険料という。ところが、同社は、その保険料を契約期間に応じてならす、「平準保険料」方式を採用した。この仕組みは契約期間の前半に将来の保険料を前払いし(この前払いした保険料がいわゆる責任準備金となる)、契約期間の後半に積み立てられた金額を保険料として取り崩すことになる。これが現在の生命保険の保険料計算の主流となっている。

本来、相互扶助の仕組みであった生命保険だが、平準保険料の採用により、前払いされた保険料が生命保険会社の多額の運用資産となった。そしていわゆる機関投資家として金融市場に大きな影響力を持つ礎となった。
簡易保険の成立

当初は生命保険は資産家や牧師など特殊な人々のものであった。ところが、産業革命により、都市生活者や給与所得者が急増すると一家の収入の稼ぎ手が亡くなった場合の生活保障や、葬儀費用などが問題となった。19世紀半ばのことである。

そこでロンドンの労働者達が、生命保険会社・プルーデンシャル ローン&保険組合(現イギリス・プルーデンシャル)に少額な保険料で葬儀費用を賄える保険を作って欲しいと申し入れ、プルーデンシャルはこれを受け入れて少額・保険料建・週払の労働者向け保険を開発した。このことで、生命保険は一挙に庶民のものとなった。一時期、英国の全世帯の1/3がプルーデンシャルと契約していたとも言われている。当時の労働者にとってこうした問題がいかに深刻であったかを物語る事例といえよう。

また、こうした問題は現在の先進国各国で問題となっており、カナダでは国策として生命保険会社を整備した。国会の議決により労働者向けの生命保険を扱う保険会社を設立している。これが現在のマニュライフ生命保険である。
三大生保の絶頂期証券引受と、証券保有による企業の系列化は、生命保険会社によっても行われている。このように、(19世紀末から20世紀初頭におけるアメリカの)生命保険会社は、商業銀行、信託銀行、個人銀行業者と同じ活動を行っている。生命保険会社は、たんに投資だけを目的としてではなく、売出しを目的に証券を購入しており、大生命保険会社は、シンジケートの引受活動に参加することによって、多くの金融活動を意のままに支援している。(中略)生命保険会社は、自己にふさわしい投資活動を行う正常な金融業者としての地位にとどまらず、金融市場におけるさまざまな業務にまで関与したり、企業の所有者あるいは共同経営者になっていたりする。 ? Armstrong Investigation, Vol.10, pp.385-386, 388.
日本における生命保険
戦前

大日本帝国憲法の日本では死亡保険と呼ばれており、また徴兵制度に伴い徴兵保険も存在した(第一徴兵、富国徴兵、日本徴兵、国華徴兵などの株式会社)。1935年には、全体では32の死亡保険等取扱会社が存在した(相互会社4社、株式会社28社)[7]
現代

2023年現在、日本では42社の生命保険会社がこれを行っている。また、自衛隊員は団体生命保険に加入することができる。また、これとほぼ同様の商品として、郵政民営化以前に日本郵政公社が行っていた簡易保険や、農協生協などの共済事業の中で「生命共済」の名称で取り扱われているものがある。生命保険会社では、他にも貯蓄や老後の保障といった幅広いニーズに対応するため、「財形貯蓄積立保険」や「個人年金保険」などの商品を取り扱っているが、これらも広い意味で生命保険と言える。
法令

保険法2008年5月30日成立、2010年4月1日施行)では損害保険、生命保険、傷害疾病定額保険の3つに分類されている。保険業に関しては、保険業法を根拠法とし、金融庁による監督を受ける。

生命保険契約の定義として、「当事者の一方が一定の事由が生じたことを条件として財産上の給付( ... 金銭の支払に限る。 ... )を行うことを約し、相手方がこれに対して当該一定の事由の発生の可能性に応じたものとして保険料( ... )を支払うことを約する契約」(保険法第2条1号、一部省略)のうち、「保険者が人の生存又は死亡に関し一定の保険給付を行うことを約するもの( ...[8] )をいう。」(第2条8号、一部省略)と定義している。

保険法の成立以前は、商法(商法第673条)にて『生命保険契約ハ当事者ノ一方カ相手方又ハ第三者ノ生死ニ関シ一定ノ金額ヲ支払フヘキコトヲ約シ相手方カ之ニ其報酬ヲ与フルコトヲ約スルニ因リテ其効力ヲ生ス 』[9](生命保険契約は当事者の一方(保険者)が相手方(保険契約者)または第三者の生死に関して一定の金額を支払うべきことを約し、相手方がこれに対してその報酬を与えることを約することによって効力を生ずる。)と定義された。

損害保険の扱う傷害保険に似ているが、損害保険の要件とされる「急激・外来」の条件に拘束されない点で異なる(但し、特約として傷害保険を含む場合もある)。生命保険は、一般に(出生直後などを除けば)年齢とともに高まる病気や死亡の危険を保障するための仕組みであって、外来の事故のみを保障する傷害保険とは技術的根拠が本質的に異なっている。
生命保険契約の概要

契約期間が1年を越える生命保険の場合、基本的に
クーリングオフが出来るが(書面の交付又は第一回保険料支払日から8日以内に手続きを行えば可能)、自ら保険の営業所などに行って契約した場合には、クーリングオフはできない。

保険契約者又は被保険者になる者は、契約締結時に、重要な事項のうち保険者になる者が告知を求めたもの(加入時の被保険者の健康状態を記入するもの)を告知する義務を負う(保険法第37条)。

死亡保険契約の保険期間を契約締結時以前に遡及させる保険(遡及保険)は、保険契約者が当該死亡保険契約の申込み又はその承諾をした時において、当該保険契約者又は保険金受取人が既に被保険者の死亡を知っていたときは、無効とする(第39条第1項)。

被保険者の同意が無ければ、たとえ夫婦・親子であっても保険の加入は出来ない(保険法第38条)。死亡保険契約の保険金受取人を変更する場合も被保険者の同意を必要とする(保険法第45条)。

保険者は、生命保険契約を締結したときは、遅滞なく、保険契約者に対し、保険法第40条各号に掲げる事項を記載した書面を交付しなければならない(保険法第40条)。

保険金受取人が、死亡保険契約の被保険人より先に死亡したときは、その法定相続人の全員が保険金受取人の地位も相続する(保険法第46条)。

死亡保険契約の保険契約者又は保険金受取人は、被保険者が死亡したことを知ったときは、遅滞なく、保険者に対し、その旨の通知を発しなければならない(保険法第50条)。

保険者は、被保険者の死因が自殺あるいは戦争その他の変乱に起因するものである場合、また保険契約者又は保険金受取人が被保険者を故意に死亡させた場合は、保険給付を行う責任を負わない(保険法第51条)。

告知書に偽りがあったり、告知漏れがあった場合には、保険金は下りないこともある(告知義務違反、保険法第55条)。

契約が無効の場合や取り消した場合、保険者は保険料返還義務を負う。ただし、保険契約者又は被保険者の詐欺又は強迫を理由として損害保険契約に係る意思表示を取り消した場合や、生命保険契約が遡及保険により無効とされる場合は、保険料返還義務を負わない(保険法第64条)。

保険金などの請求権は、原則として支払事由発生日の翌日から起算して3年を経過した時、時効により消滅する(消滅時効、保険法第95条第1項)。保険者の保険料請求権の消滅時効は1年である(保険法第95条第2項)。

保険会社が破綻した場合には、その保険は本来なら、無効になる(保険法第96条)。しかし、契約者への影響が大きいことから、保険会社がお金を出し合い、契約者保護機構というものが作られており、実際には、別の救済保険会社もしくは保険契約者保護機構が保険業務を引き継ぐ事が多い。しかし、バブル崩壊や海外生保の流入により破綻する保険会社が増え、再び大型の連鎖倒産があった場合には契約者保護機構だけでは支えきれなくなる懸念があるとされている。

歴史
証券恐慌まで

日本では慶応3年(1868年)に福澤諭吉が著書「西洋旅案内」の中で欧米の文化の一つとして近代保険制度(損害保険、生命保険)を紹介したことが発端となり[10]、1880年に岩倉使節団の随員だった若山儀一らによる日東保生会社(日本初の生命保険会社)開業されるが、倒産してしまう[11]。1881年(明治14年)7月、福沢諭吉門下の阿部泰蔵によって現存最古の保険会社・有限明治生命保険会社が開業された。1888年には国内で2番目の保険会社として帝国生命(現朝日生命)、3番目に1889年には日本生命が誕生した。だが、当初は「人の生死によって金儲けをするのか」という誤解に基づく批判も多く、その普及には時間がかかった。

戦前までの生命保険会社の特徴としては、法人の形態が現在のような保険業法に定める相互会社ではなく、株式会社が主流であった。また、普通の生命保険会社とは別に、徴兵保険と呼ばれる保険を扱う徴兵保険会社があった。現存する保険会社の中でも、富国徴兵保険(現 富国生命)、第一徴兵保険(旧 東邦生命、AIGエジソン生命保険に継承)、第百徴兵保険(旧 第百生命、マニュライフ生命に継承)、日本徴兵保険(旧 大和生命)などがそうである。徴兵保険とは、養老保険の一種で子供が小さいうちに加入しておくと、その子供が徴兵などのときに保険金が給付されるというものであったようだ。現代で言えば学資保険のような商品といえる。こうしたことからも戦前までは養老保険などの貯蓄性の高い商品がその主流であった。親子や兄弟・親類が同居・隣接するなどの家族構成や地縁・社縁・血縁で支え合う機能が十分に機能しており、生命保険に求められている遺族の生活を補償する役割のウエイトがそれほど高くなかったと言える。

戦後、こうした生命保険会社の多くは株式会社から相互会社に衣替えし、再出発した。この時期に女性営業職員による募集が考案され、戦争未亡人の働き口として供給が豊富だったこともあり、各社がこぞってこの方式(セールスレディによる護送船団方式による職域営業)を採用するようになった。また家族構成も親子だけで暮らすなどの核家族化が進み、地縁・社縁・血縁もかつてと比べると希薄となり、万が一に際しての遺族の生活を補償する役割は個々人に求められるようになった事から主流の商品は従来まで人気の高かった貯蓄性の高い養老保険から保障の大きな定期付養老保険、さらには定期付終身保険へと徐々にシフトしていった。
高度経済成長?バブル期

この時代の主な動きとして、1973年にアリコ(現メットライフ生命)、1974年にはアフラックによるがん保険などの第三分野保険を足がかりとして、外資系保険会社が参入を始める。国内大手生保は第三分野保険を単体(主契約)ではなく、従来商品であった死亡保障に付ける特約を中心に医療保障の提供を始める。またこれまで長く続いていたセールスレディによるセット商品での販売手法に対して、1981年当時世界最大の生命保険会社であった米国プルデンシャル・ファイナンシャルソニーが合弁会社でソニー・プルデンシャル生命(現ソニー生命)を設立。大学卒業以上の学歴を有し、税制・法律・社会保障などの関連知識を備えた生命保険の専門家ライフプランナーによるコンサルティングセールスで営業を開始。その後に登場するファイナンシャル・プランナーによるライフプラン表の作成・収支分析・家計相談などの基礎となる提案スタイルと生命保険における専門職という新しいチャネルを生命保険業界へ持ち込む。また一方でいわゆるバブル景気(以下「バブル期」)による金利の上昇と不動産の価格高騰は、「超長期固定金利」の商品(定額保険)を扱う生命保険会社にも多大な影響を与えた。一つにはバブル崩壊後、高い予定利率の保有契約を多数抱えてしまったこと、もう一つには、資産運用手段として不動産への投資、あるいは不動産関連の融資を行ったことで、保有資産・貸出資産が不良化してしまったことである。この結果、資産運用による収益力が落ち込むとともに、運用は延びずに予定利率との差額が発生する「逆ザヤ」により経営基盤が不安定になっていった。当時、経営が悪化していた会社は渋谷付近に本社を置いていたものが比較的多く、それらの中でも特に日産生命千代田生命東邦生命日本団体生命を指して「渋谷4社」と呼ばれることがあった。結果的にこれら4社のうち、日本団体生命(アクサ生命と統合)を除く3社は経営破綻[注 1] しており、その他に大正生命[注 2]協栄生命[注 3]東京生命[注 4] の3社が破綻している。

一方、バブル期には株式投資が活発化したことから変額保険が注目された。一般的な生命保険は定額保険と呼ばれており、契約時の保障額が変動することはない。そのため経済成長や株価・物価の上昇(インフレーション)局面でその資産価値(保障額)の実質的な目減りが生じる。変額保険はインフレなどにより長い期間の間に保険金が著しく目減りする定額保険の欠点を補うものとして開発され、この時期の保険契約では注目を集めることとなった。また保険金の税の仕組みを活用した相続対策などの名目で生命保険会社によっては銀行と組んで融資と販売をセットにした営業活動を積極的に行った。しかし、想定に反して株価はバブル崩壊によって著しく下落し、それによって大幅に目減りした満期返戻金では融資の返済に不足が生じたため、多くの資産家・契約者が損害を被ることとなった。このような株価下落時のリスクの説明が不十分だった点や、募集行為上の問題(銀行が積極的に募集に関わったなど)があったことなどにより、保険会社や銀行に対する訴訟が相次いだ。


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