甘粕正彦
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同年7月から陸軍の予算でミネと2人でフランスに渡る。渡仏当初はフランス陸軍大学校に留学していた澄田?四郎、澄田帰国後は新たに同じくフランス陸大に留学してきた遠藤三郎が甘粕夫妻の生活の面倒をみた。また、フランスでは画家の藤田嗣治等と交流[13]。フランス滞在の際の陸軍からの支援金もそれなりのものがあった筈だが、甘粕は澄田の帰国頃から弟の二郎に対し金銭を催促する手紙を度々送っている。遠藤に対しても度々借金をしており、その際「面目ないが、競馬で大金をすった」と言っていたという[14][15]

甘粕がフランスへ渡った理由・目的は不明だが、一般には、陸軍側の何らかの口止めか、そこまで行かずともスキャンダルのほとぼり冷ましのためと見る向きが多い。弟の二郎に宛てた手紙からは甘粕からフランスへ行きたいと希望した事がうかがえる。一方で、渡仏が決まった後、甘粕は何度か周囲に「行きたくない」ともらしている[16]。フランス時代の甘粕はフリーメイソンに関係していた、または日本人メーソンであったという説がある[注釈 1]が、澄田と遠藤はそれぞれ「噂を聞いたこともなく、信じられない」とし、「武官時代にフリーメイソンを調査した」と語る澄田は「あの当時の甘粕が近づけるような結社ではない。彼の語学力を考えただけでも不可能だ」としている[19]
満洲国へ満洲国時代の甘粕。政治家・要人らに普及した協和服を着用している。

1930年(昭和5年)、フランスから帰国後、すぐに満洲に渡り、南満洲鉄道東亜経済調査局奉天主任となり、さらに奉天の関東軍特務機関土肥原賢二大佐の指揮下で情報・謀略工作を行うようになる。大川周明を通じて後に柳条湖事件や自治指導部などで満洲国建国に重要な役割を果たす右翼団体大雄峯会に入る。そのメンバーの一部を子分にして甘粕機関という民間の特務機関を設立。この頃、麻薬取引にも手を染め、蓄財をしたとも言われる。

1931年(昭和6年)9月の柳条湖事件より始まる満洲事変の際、ハルピン出兵の口実作りのため奉天に潜入し、中国人の仕業に見せかけて数箇所に爆弾を投げ込んだ。その後、清朝の第12代皇帝宣統帝愛新覚羅溥儀1924年馮玉祥が起こしたクーデターにより紫禁城を追われ、1925年以降は天津に幽閉)擁立のため、溥儀を天津から湯崗子まで洗濯物に化けさせて柳行李に詰め込んだり、苦力に変装させ硬席車(三等車)に押し込んで極秘裏に逃亡させた。

その働きを認められ1932年(昭和7年)の満洲国建国後は、民政部警務司長警察庁長官に相当)に大抜擢され、表舞台に登場する。自治指導部から分かれた満洲唯一の合法的政治団体満洲国協和会が創設されると理事になり、1937年(昭和12年)には中央本部総務部長に就任。1938年(昭和13年)、満洲国代表団(修好経済使節団)の副代表として公式訪欧し、ムッソリーニとも会談。
満映理事長

1939年(昭和14年)、満洲国国務院総務庁弘報処長武藤富男と総務庁次長岸信介の尽力で満洲映画協会満映)の理事長となる。満映のある新京の日本人社会では「遂に満映が右翼軍国主義者に牛耳られる」、「軍部の独裁専横人事」と噂されたという。

岸信介が甘粕に報いるために理事長にしたのだという説もあるが、準国策会社として満映が製作した当時の映画は固苦しく不人気で、さらに労使紛争にも直面していて実は経営危機にあり、甘粕が甘粕事件の際の義捐金等でかなりの資産がある(実際には満州の特務機関での阿片売買によるものとみられる)と思われていたため、その資金支援をあてにして寧ろ満映関係者の方から積極的に経営陣に入るよう求められたとする説がある。

甘粕は満映の経営立て直しのために大量の従業員の解雇を行ったものの、その再就職先の確保には努力したとされる。紳士的に振る舞い、経営の再建とともに、満映の日本人満人双方共に俳優・スタッフらの給料を大幅に引き上げただけでなく、日本人と満人の待遇を同等にしたことや、女優を酒席に同伴させることを禁止するなど、社員を大切にしたことから満映内での評判は高まっていった。甘粕はまた、文化人でもあり、ドイツ訪問時に当時の最新の映画技術を満洲に持ち帰った。それは後に戦後、東映の黄金期を築くことにもなった。また、朝比奈隆が指揮をしていたハルビン交響楽団の充実にも力を尽くした。また甘粕本人は軍官僚あがりであり芸術的才には恵まれておらず、映画製作の芸術面において社員の監督等に馬鹿にされることも多かったが、そうした無礼の数々も「僕の範囲外なので」と笑って受け入れていた。

満洲時代の甘粕は"満洲の夜の帝王"とも呼ばれ、また、日本政府の意を受けて満洲国を陰で支配していたとも言われる。しかし甘粕はその硬骨漢ぶりと言動故に関東軍には煙たがられ、甘粕事件のイメージもあり、士官学校の恩師である東條英機という例外を除いては、むしろ冷遇されており、その影響力はあくまで日本人官僚グループとの個人的な付き合いや、士官学校時代の同期の学友達との人脈が源泉となっていたという(根岸寛一の証言)。また、根岸の証言によれば、謀略の資金源の大半は満映から出ていたという。
自殺

1945年(昭和20年)8月8日ソ連日ソ不可侵条約を破棄し日本に宣戦布告。翌9日満洲に侵攻。ソ連軍が新京に迫りくる中、ポツダム宣言受諾が発表された翌日の8月16日、甘粕は満映の社員を全員集めて「必ず死ぬ」と言った上で、中国人社員に「(満映は)中国人社員が中心になるべき」と述べ、最後に「皆さんのお世話になったことを深く厚く御礼申し上げます」と挨拶した。そのあとに身の回り品を形見として一人一人に配り、社内の預金を退職金として全額引き出した。当時、満映にいて日本帰国後も有名な女優となった木暮実千代の証言によれば、女は一番いい着物を着てこい、できれば白い着物を着てこい、男は殺傷道具を持って集まれという話がきたが、帰って来た夫からフィルムに火を付けて死のうという話になっているから行くなと言われたとの証言があるため、当初は集団自決を図っていたものの、反対者が多く集団自決は取りやめになったようである[20]。甘粕の部下は自殺しないよう銃器や刃物などを取り上げ見張っていたが、20日早朝、監視役の大谷・長谷川・赤川孝一(作家・赤川次郎の父)の目を盗み、隠し持っていた青酸カリで服毒自殺した(この現場には映画監督内田吐夢や漫談家の坂野比呂志も居合わせた。また、一部の者には自決用に青酸カリを配ったようである[20])。満映のスタッフは皆で甘粕を看取り、葬儀も執り行われた(新京で行われた葬儀には甘粕を慕う日満の友人三千人が参加し、葬列は1キロを越えたという[21])。甘粕の遺体は一時新京で埋葬されたが、翌1946年(昭和21年)4月に荼毘に付された。遺骨は家族が日本に持ち帰り、多磨霊園に納骨された[22]

なお、甘粕の自殺については終戦直後の新聞で、満映の社員を集めて演壇に立ち拳銃で自らの額を打ち抜き自殺したとの報道があった[23]ため、「拳銃による自殺説」も流布された。
人物

森繁久彌は甘粕について「満洲という新しい国に、我々若い者と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見てくれた。ビルを建てようの、金を儲けようのというケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようという、大きな夢に酔った人だった」と語っている。武藤富男は、「甘粕は私利私欲を思わず、その上生命に対する執着もなかった。彼とつきあった人は、甘粕の様な生き方が出来たら…と羨望の気持ちさえ持った。また、そこに魅せられた人が多かった」と述べている。

李香蘭こと山口淑子が、「満映を辞めたい」と申し出た際には「気持ちは分かる」と言って契約書を破棄したが、彼女の証言によれば「ふっきれた感じの魅力のある人だった。無口で厳格で周囲から恐れられていたが、本当はよく気のつく優しい人だった。ユーモアを解しいたずらっ子の一面もあるが、その度が過ぎると思うことも度々だった。酒に酔うと寄せ鍋に吸殻の入った灰皿を入れたり、周囲がドキリとするような事をいきなりやった」とのこと[24]

権力を笠に着る人間には硬骨漢的な性格を見せ、内地から来た映画会社の上層部を接待した席で彼らが「お前のところの女優を抱かせろ」と強要した際に、「女優は酌婦ではありません!」と毅然とした対応をしたという。

これら周囲の人間の好意的な証言がある一方で、ヒステリックで神経質、官僚的という性格が一般には知られていた。

1921年(大正10年)6月、憲兵大尉に昇進し千葉県市川憲兵分隊長になると、まもなく野田争議が勃発。甘粕は野田町に出張して十数日泊まりこみ、会社側と労働者側の代表を料亭に招いて話し合いをさせ、調停の糸口をつけることに成功した。最後に席を立ち勘定をいいつけると、既に会社側が払ったという。甘粕はそれを会社側に返金させ、自分の金で支払った。部下のためにもよく金を散じた甘粕は、この時代から金離れのいい男として通っていた[5]


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