瑞鶴_(空母)
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翔鶴型航空母艦の2番艦[26]。艦名には「」に、めでたいという意味の「瑞」をあてた。

日本太平洋戦争大東亜戦争)突入後、真珠湾攻撃セイロン沖海戦珊瑚海海戦第二次ソロモン海戦南太平洋海戦マリアナ沖海戦等の海戦に参加し、姉妹艦の翔鶴と共に日本海軍の主力艦として活躍したが[27]、翔鶴と対照的に、マリアナ沖海戦まで一発も被弾しなかった幸運艦であった[28][注釈 1]。翔鶴沈没後の1944年昭和19年)10月25日レイテ沖海戦のエンガノ岬沖海戦で沈没。

瑞鶴は翔鶴とともに日本の軍艦では初の球状艦首を採用して高速化が図られ、防御力も炸薬450キロの魚雷の直撃にも耐えられるように設計された[30]
歴史
建造

1930年代初頭、日本海軍はワシントン海軍軍縮条約ロンドン海軍軍縮条約から脱退、第二次ロンドン海軍軍縮会議も決裂した。これを踏まえ、第三次海軍軍備補充計画(B計画)帝国議会で承認される。第1号艦(大和)、第2号艦(武蔵)、第3号艦(翔鶴)、第4号艦(瑞鶴)、第5号艦(日進)として、1938年(昭和13年)5月25日川崎造船所(川崎重工業)艦船工場で瑞鶴が起工された[31][32]。同造船所が建造する三万トン級大型軍艦としては、巡洋戦艦「榛名」、戦艦「伊勢」、戦艦「加賀」に続く四隻目となった。

1939年(昭和14年)9月14日、軍令部より高松宮宣仁親王少佐が抜き打ちで神戸艦船工場を訪れ、瑞鶴の工期を半年繰り上げられないかと発言[33](実質的には一番艦翔鶴との同時竣工の要求)、それを受けて3ヶ月の工期短縮が決定され、これが結果的に、2年後の瑞鶴の真珠湾攻撃への参加を可能とさせた[34]。同年9月30日、神戸造船所で建造中の空母に瑞鶴[25]、敷設艦(甲標的母艦)に日進、砲艦橋立潜水艦3隻に伊号第二十一潜水艦伊号第二十三潜水艦伊号第二十四潜水艦敷設艇浮島の艦名が正式に与えられた[注釈 2]11月15日、空母飛龍艦長の横川市平大佐は本艦艤装員長に任命された[36]。同年11月27日午前7時40分、伏見宮博恭王軍令部総長、吉田善吾海軍大臣、嶋田繁太郎中将(呉鎮守府司令長官)臨席のもとで進水した[注釈 3]

1941年(昭和16年)8月14日、瑞鶴は呉海軍工廠での仕上げ作業のため神戸から呉基地に向かう途中、室戸岬沖で台風十四号の暴風雨に遭い、その際ハッチの閉め忘れにより浸水するという出来事があった[38][39]1941年(昭和16年)9月25日、就役[32]。同時に横川艤装員長は正式に瑞鶴の初代艦長となった[40]。瑞鶴は8月8日に竣工していた姉妹艦の翔鶴[41]駆逐艦2隻(秋雲)とともに第五航空戦隊に所属した[42][注釈 4]。この時点では、姉妹艦と区別するために甲板前部に「ス」と書かれていた。ただし、最終状態の時には書かれていない。

1941年(昭和16年)9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴、瑞鶴)は第11駆逐隊(吹雪白雪初雪)と共に第一航空戦隊(一航戦)を編制し[44]、それまでの一航戦(赤城加賀)は第51駆逐隊(白雲薄雲)と共に第五航空戦隊(五航戦)となる予定であった[45][46]。しかし、旗艦として使用する予定であった完成直後の翔鶴を訪れた第一航空艦隊司令部は「翔鶴型の飛行甲板は他の空母と比べて著しく短い」「艦橋付近の飛行甲板の幅が狭く、艦上機の運用に不便」と評価を下しており、その影響もあってか編成替えの予定は中止された[47]
第一段作戦
真珠湾攻撃詳細は「真珠湾攻撃」を参照

1941年(昭和16年)9月1日、第五航空戦隊は第一航空艦隊(長官は南雲忠一中将)に編入され、真珠湾攻撃に参加した。艦上攻撃機隊48機が宇佐基地艦上爆撃機隊54機が大分基地艦上戦闘機隊36機は佐世保海軍航空隊大村飛行場を基地として[48]、離着艦訓練や錦江湾志布志湾佐伯湾での訓練を行った。昭和16(1941)年11月14日、ハワイ作戦のため豊後水道で訓練中の瑞鶴。[49]

11月16日、瑞鶴は呉基地で燃料・弾薬・食料などを搭載、艦上機も全機収容した[50]。出港前に副長から凡その目的地と寄港地を説明されるのが通例であったが、今回はそれが無いまま出港し、途中で自艦の搭載機部隊を各陸上基地から離陸させて着艦収容すると佐伯湾に錨泊した[51]。佐伯湾にはハワイ作戦に参加するほとんどの24隻の艦船が集まっており、翌17日午後に山本五十六連合艦隊司令長官の視察を受けた。各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日に時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ、第五航空戦隊は豊後水道を他艦とは逆に北上して別府湾で停止した。日付が19日になった午前0時に再び動き出して豊後水道を戻り、本州東方の太平洋を北上していった。

旗艦赤城では佐伯湾を出た翌日の航行途中で全飛行搭乗員へハワイ作戦が訓示されたが、瑞鶴では呉出港以来、何も説明が無いまま11月22日千島列島択捉島単冠湾へ入った[52]


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