琵琶
[Wikipedia|▼Menu]
また、琵琶を主体とした音楽を「琵琶楽」と総称する。
五弦琵琶

五弦琵琶は奈良時代より中国大陸から伝来した。聖武天皇に献上され、その後、正倉院に収められた螺鈿紫檀五絃琵琶は、世界に残る唯一の古代の五弦琵琶である。この五弦琵琶は、南インド産の紫檀に螺鈿細工をほどこしたもので、インドから中央アジアの亀茲国経由で唐に入り、日本にもたらされたとされる。五弦琵琶が他に見当たらない理由として、音域が四弦琵琶よりも狭く、演奏法も難しかったからだといわれる。[5]

陽明文庫には、五弦琵琶の楽譜が残されている。その譜字は次の通り。

五弦琵琶の譜字絃\柱開放弦第一柱第二柱第三柱第四柱
第一絃一ユ几フ?[注釈 2]
第二絃L[注釈 3]ス十乙[注釈 4]
第三絃リ[注釈 2]七ヒ[注釈 4]?ミ[注釈 2]
第四絃?八hムヤ
第五絃子九中/口[注釈 5]四五

この他に「小」という譜字も現れているが、これは第四絃第二柱「h」の別体という説、あるいは第四絃開放弦「?」と第四絃第一柱「八」の間の小さな柱を表す譜字という説がある。
楽琵琶楽琵琶琵琶を奏でる匂宮(『源氏物語絵巻 宿木』平安後期ごろ)楽琵琶、筑前琵琶、平家琵琶、盲僧琵琶、薩摩琵琶の比較

楽琵琶は雅楽で両絃と呼ばれるもののうちの一つ(もう一つは楽箏)で、管絃、催馬楽(さいばら)に用いる琵琶である(舞楽では通常用いられない)。標準的なものとしては日本の琵琶の中で最も大きく、奈良時代に伝えられた唐代琵琶の形をほとんどそのまま現代に伝えている。撥は逆に最も小さい。現在は合奏の中で分散和音を奏しながらリズム的に支える役目をしている。天平琵琶譜(奈良時代 天平10年頃 西暦738年頃)正倉院

かつては独奏曲もあり、琵琶の三大秘曲として「楊真操」、「啄木」、「流泉」などが知られたが、現在に伝えられていない。また様々な技法も存在したようである。しかし、これらの曲の楽譜は現存しており、宮内庁楽部楽長多忠麿によって復曲が試みられ、演奏の録音もおこなわれた。

古くから愛された楽器で、文芸作品にもしばしば登場する。吉備真備蝉丸平経正など名人、名手といわれた人も多く、また多くの名器が伝えられている。おおらかで豊かな音色を持ち、後世の諸琵琶との大きな違いは、他の楽器との合奏に用いられること、調ごとに調弦法が変わること、「さわり」(サワリ)の機構がないこと、左手の押弦が、柱(フレット)の間で絃を押さえる張力を変化させて音程を変える奏法がないこと、また小指まで使用すること、などである。

楽琵琶の譜字としては、次のものを用いる。これはの譜字と同源とされている。

楽琵琶の譜字絃\柱開放弦第一柱第二柱第三柱第四柱
第一絃一(いち)工(く)?[注釈 6](ぼ)フ(しゅ)斗(と)
第二絃?(おつ)下(げ)十(じゅう)乙(び)コ(こ)
第三絃ク(ぎょう)七(しち)ヒ(ひ)?(ごん)之[注釈 7](し)
第四絃?(じょう)八(はち)h(ぼく)ム(せん)也(や)

平家琵琶

平家琵琶は楽琵琶から派生したもので、楽器は楽琵琶とほぼ同じつくりだが、小型の物が好まれる。撥は逆にやや大きく、先端の開きが大きい。平家物語をかたるときの伴奏に用いる。平家琵琶を用いた平家物語の語り物音楽を「平曲」と呼ぶ(薩摩琵琶、筑前琵琶にも平家物語を題材とする曲が多数あるが、これらは近世以降に作られたものであり、音楽的には平曲とはまったく違うものである)。伝承によれば、鎌倉時代のはじめ頃に生仏(しょうぶつ)という盲人音楽家がはじめたとされ、曲節には仏教音楽である声明(しょうみょう)の影響がみられる。のち、南北朝時代の盲人音楽家如一とその弟子明石検校覚一1299年 - 1371年)が改変、整理し、一方(いちかた)流を創始した。いっぽう城玄が創始した八坂流も生まれる。室町時代には能楽と並び広く愛好され、中世日本音楽の代表的存在として並び称される。江戸時代初期には前田検校により前田流が、波多野検校により波多野流が生まれ、前者は江戸を中心に、後者は京都を中心に行なわれた。演奏は当道座に属する盲人音楽家により占有されていたが、江戸時代には晴眼の奏者もあらわれた。しかし地歌浄瑠璃などの三味線音楽や箏曲の発展と共に次第に下火となり、波多野流は断絶、前田流は江戸時代中期に名古屋の荻野検校によって中興し、この流派のみがこんにちまで名古屋と仙台に伝えられている。演奏者は非常に少ないが、稀に「鱸」「竹生島詣」「那須与一」などを聴く機会がある。雅楽と平曲は絶対音高の音楽であるため、楽琵琶と平家琵琶は絶対音の楽器であり、相対音高の音楽である近世以降の琵琶楽と異なる。

三味線の祖型が日本に伝来したとき、これを初めて扱い現在に近い楽器に改良したのが平家琵琶の演奏家たちであった。そのため、琵琶と同じように三味線を撥で弾くようになった。ただし琵琶と三味線では撥の形状や持ち方に違いがある。また三味線は楽器のみが伝わり楽曲は伴わなかったため、彼らにより新曲が次々に作り出されたが、その際にも平曲の音楽的要素が色々反映されている。
盲僧琵琶「盲僧琵琶」も参照

盲僧琵琶は仏教儀式に用いられたもので、盲人の僧侶が『法華経』方便品第二の偈の「妙音成仏」の思想を根拠に[6]琵琶の伴奏で経文を唱えたとされるが、娯楽的な音楽もある。その起源は奈良時代に求められ、早くから盲僧の組織が作られていた。蝉丸もその一人といわれる。大別して薩摩盲僧と筑前盲僧とがあり、室町時代から江戸時代にかけ、平曲の座頭組織である当道座と対立した。薩摩盲僧琵琶から薩摩琵琶が派生し、また薩摩琵琶および三味線音楽の影響のもと明治20年代に筑前盲僧琵琶から筑前琵琶が派生した。

盲僧琵琶には一定した制がなく、色々なかたちがみられるが、楽琵琶の系統とはやや異なり、近世中国の琵琶に似ているものが多い。細身のものが多く、特に細いものを笹の葉に見立てて「笹琵琶」と呼ぶ。筑前琵琶では五弦、薩摩琵琶では四または五弦の琵琶が使われていたが、薩摩系の常楽院流の伝書『琵琶由来記』によれば、盲僧琵琶の柱は古くは六弦六柱だったものを四弦四柱に改めたとあり、常楽院には六柱の琵琶が保存されている。6には六波羅蜜六観音など仏教の命数としての意味があり、六柱琵琶は仏具として全ての盲僧琵琶に使われていたと見られている[7]
薩摩琵琶「薩摩琵琶」も参照薩摩琵琶の裏側

薩摩琵琶は16世紀に活躍した薩摩の盲僧、淵脇了公が時の領主、島津忠良に召され、命を受けて、武士の士気向上のため、新たに教育的な歌詞の琵琶歌を作曲し、楽器を改良したのが始まりと言われる。これまでの盲僧琵琶を改造し、武士の倫理や戦記合戦物を歌い上げる勇猛豪壮な演奏に向いた構造にしたものである。盲僧琵琶では柔らかな材を使うことが多かった胴を硬い製に戻し、撥で叩き付ける打楽器的奏法を可能にした。撥は大型化し、杓文字型から扇子型へと形態も変化した。これにより、楽器を立てて抱え、横に払う形で撥を扱うことができるようになった。江戸時代には「木崎ヶ原合戦」などの合戦を叙した曲が作られて次第に盛んになり、やがて武士だけでなく町民にも広まった。こうして剛健な「士風琵琶」と優美な「町人琵琶」の2つの流れが成立する。江戸時代末期に池田甚兵衛が両派の美点を一つに合わせ、一流を成し、以降、これが薩摩琵琶として現在まで続いている。

薩摩出身者が力を持っていた明治時代には富国強兵政策とも相まって各地に広まり、吉村岳城、辻靖剛、西幸吉、吉水錦翁などの名手が輩出した。また明治天皇が終生愛好し、明治14年5月に、元薩摩藩主・島津忠義邸にて西幸吉が御前演奏をしたことから、社会的な評価がさらにあがり、やがて「筑前琵琶」とともに「宗家の琵琶節」は皇室向けにしか演奏しない「御止め芸」となった。また、永田錦心が出て、洗練された都会的で艶麗な芸風を特徴とする錦心流を打ち立て、これが評判となり全国に普及した。さらに昭和に入ると水藤錦穣が筑前琵琶の音楽要素を取り入れた「錦琵琶」を創始した。楽器も筑前琵琶を取り入れ五弦五柱を持つよう改良された。その後、水藤錦穣と同じく錦心流から出た鶴田錦史が五弦五柱をさらに改良すると共に、音楽的にも新しい分野へ飛躍させた。それまで語りの伴奏として用いられてきた琵琶に器楽的要素を大きく取り入れ、語りを伴わない琵琶演奏、西洋楽器やこれまで協奏することの無かった他の和楽器との合奏、また錦心流を基礎とした琵琶歌の改良、など斬新なアプローチを行った。鶴田錦史の流れを汲む一派を「鶴田流」あるいは「鶴田派」と呼び、近年発展している。
唐琵琶1894年刊『明清楽之栞』より

唐琵琶は、清代に民間で流行した琵琶で、その楽曲(清楽)や月琴等多数の楽器と共に文政年間頃日本に伝わったものである。唐琵琶とは日本での呼び名で、唐代の琵琶とは大きく異なるので注意が必要である。細身で胴は槽の材が表面にまで出て枠となり、そこに表板をはめ込む形をとっている。これは盲僧琵琶の多くや筑前琵琶と共通している。弦は四本、フレットは14個あり、撥ではなくへら状の義甲を用いて弾奏する。主に清代の民間楽曲(清楽)を他の楽器と合奏する。著名な曲としては「九連環」「茉莉花」「水仙花」などがある。清楽は以前に伝わっていた明楽と合わせて明清楽と呼ばれ、幕末から明治初期にかけて流行したが、日清戦争の頃急速に下火となり、現在ではわずかに長崎に伝えられている。
筑前琵琶「筑前琵琶」も参照五絃五柱の筑前琵琶。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:67 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef