琉球民族
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著名な『日本人二重構造論』を否定するという点で大変貴重だ」と指摘している[30][31]
文化的比較
言語詳細は「琉球語」を参照

琉球王国領域の言葉を独自の琉球語であるとする場合でも日本語と共に日琉語族に属する。一般的には琉球方言とする主張が多く、それ以外の日本語を本土方言と分類し両者をあわせて日本語とする見解が主流である[要出典]。どちらの主張でもこの地域の言葉は日本の言語を構成する二大要素といえる。奄美群島や琉球諸島の言語も相互での意思疎通が困難なほど地域差が大きく、諸言語の集合と捉えることもある。ただし、エスノローグでは喜界語北奄美大島語南奄美大島語徳之島語沖永良部語与論語国頭語中央沖縄語宮古語八重山語与那国語として分類し、それぞれを別言語とみなしている。
神話

「琉球民族」はアマミキヨとシネリキヨという女男2柱の祖先神をもち、これをもって日本神話とは神話体系が異なるとし、民族としての文化面の大きな相違点だと主張する者もいるが、日本神話における国産み神産みイザナギイザナミという夫婦神、アマテラススサノオという姉弟神との共通点・類似点も多く、こちらも多くの議論の対象となっている。
音階

沖縄には琉球音階をはじめとする独自の音階が存在し、これをもって大和民族の音階群とは異なるとし、民族としての文化面の大きな相違点とされる。一方で否定派はド・ミ・ファ・ソ・シ・ドの5音階を琉球音階と呼ぶことは誤解もしくは不十分な理解に根ざし、混乱の原因であるとの指摘する[要出典]
民俗学、宗教学

初期の民俗学者は南西諸島の文化について九州以北との近縁性をとらえ、本土での近代化により失われた習俗などが数多く残されているとして重視していた。柳田國男は『海上の道』で黒潮の流れから着想を得て沖縄県との類縁を論じ、その弟子の折口信夫まれびと論・他界観で沖縄県周辺の宗教から多くの論拠を引いている(『古代研究I』[32] など)。
日琉同祖論「沖縄県の歴史」も参照

九州以北とその起源を同じくする、同一民族の支族であるとする考えを日琉同祖論という。「琉球民族」論にとっては対論と看做せる論であり、沖縄県における日本復帰運動では思想の根幹となった。歴史的には「琉球民族」論よりもはるかに古く、その起源には歴史学上も様々な説がある。
古代

隋書」において、607年煬帝は朱寛を「流求」に遣わした際に、「流求人とは全く言葉が通じず、朝貢を拒んだ」との記載がある。なお、この「流求」が現在の沖縄県周辺を指していたのかは判然としない。一方で、「日本書紀」や「続日本紀」には7世紀から8世紀に掛けて少なくとも5回「掖玖・夜勾」、「多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美人)」、「多?・掖玖・菴美・度感」、「奄美・夜久・度感・信覚・球美」と呼ばれる人々について、大和朝廷との朝貢関係や、朝廷から位階を授けた記録がある。これを受けて「大和船で大極殿に上り、や手土産を買った」という歌が『おもろさうし』に残っている。おもろさうしは琉球中世の編纂ではあるが、貝塚時代晩期(古代)、グスク時代から古琉球までの琉球・沖縄の伝承を色濃く残していると考えられている。
中近世

日琉同祖論は、直接的には16世紀京都五山の和僧によって唱えられた源為朝琉球渡来説に端を発していると考えられている。これがそのまま琉球へ伝わった。時の琉球王国摂政羽地朝秀は、国史『中山世鑑』を編纂し、羽地の改革を断行し琉球五偉人の一人に準えられている。この『中山世鑑』に日琉同祖論が色濃く影響を与えている。

羽地の摂政就任後の1673年3月に『羽地仕置』(令達及び意見を記し置きした書)を発令し、この中で『琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからである』と語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている[33]

もっとも1609年薩摩侵入を経て、実質その支配下において書かれた史書などを出所としており、この説には薩摩の意向が反映されている疑いを排除できないと否定する者もあるが、日琉同祖論自体は琉球侵攻以前の琉球社会においても広く受け入れられていた。『中山世鑑』や、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などはともかく、『おもろさうし』などは明らかに侵攻以前のものである。

これらで描かれている日琉同祖論は概ね、12世紀源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったと言うものである。その事自体の真偽は不明であり歴史学者でも探求の的となっているが、未だに全く確定的な見解は得られていない。ともかくも、王国時代の琉球ではこれが正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。
近代

琉球処分により沖縄県が設置、日本に併合され、日本的近代化が沖縄でも急速に進行した。その影響下、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。明治以降も沖縄県の文化人らの一部で主流となり展開された。伊波普猷沖縄学もこの影響を強く受けている。
現代

沖縄戦を経てアメリカ統治下の沖縄において沖縄人民党委員長瀬長亀次郎は、日本本土復帰運動のさなか、その著作として、民族三部作の一つ『民族の悲劇』をあらわしているが、そこでの「民族」は「明らかに日本民族であって、沖縄県民を異民族支配の下に置かれた日本民族の一部」と表現している[34] のも、同じ流れにあると言える。沖縄返還後は沖縄県の独自性たる芸能の保護などについても運動しているが、ここでも彼は、沖縄県の芸能は「日本の宝」と表現した[35]
近年の政治的傾向
日本国内において

琉球独立運動の観点から、琉球民族独立総合研究学会などの団体により、琉球民族の概念が主張されることがある。「琉球民族の琉球民族による琉球民族のための学会」としている[36]。また、民族自決権として自己決定権として主張されることもある[37]。また、沖縄新聞社の琉球新報では、スコットランド選挙などが自己決定権として沖縄と対比される報道もあった[38]
日本国外において

中華人民共和国には琉球人が中華民族であるとして、関連性や領有を主張する意見が存在する。唐淳風は琉球民族は中華民族の末裔であると主張している。また、中華民族琉球特別自治区準備委員会は「琉球は中華民族のなわばり」であり、中国領土であると主張している。
脚注[脚注の使い方]^ 伊波&外間 2000, p. 87, 琉球史の趨勢.
^ 鹿野政直 (1993). 『古琉球』. pp. 67-105
^ 石田正治 2010, p. 156-169.
^ 新崎盛暉『日本になった沖縄』有斐閣、1987年。 
^ 人種差別撤廃委員会の最終見解(CERD/C/JPN/CO/7-9)に対する日本政府コメント(2016年8月)
^ 琉球新報. “ ⇒沖縄の民意尊重を 国連人種差別撤廃委が日本に勧告”. 2014年8月31日閲覧。
^ OHCHR. “ ⇒Committee on the Elimination of Racial Discrimination considers report of Japan”. 2014年8月31日閲覧。


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