その一方で、国外への影響力は薄いものの、クロード・バリフ、アラン・バンキャール、ジャック・ルノ、オリヴィエ・グレフ、ブリス・ポゼ、ニコラ・バクリ、ティエリー・ランチノらのように、エクリチュール(書式)の完成度の格調と音色美を誇る「フランスの古き良き伝統」を継承する流派も今日まで続いている。教会音楽の分野で、近代からのマルセル・デュプレ、シャルル・トゥルヌミール、モーリス・デュリュフレらの伝統を受け継ぐ流れとしてティエリー・エスケシュの名が挙げられるし、世俗的諧謔性とフランス室内楽の精神(エスプリ)を併せ持つ流れとして、近代からのジャック・イベールやジャン・フランセを引き継ぐジャン=ミッシェル・ダマーズの名が挙げられる。いずれも、いわゆる「現代音楽」と呼ばれる音楽の書法から見れば古典的だが、彼らは、現代においても脈々と受け継がれている伝統的楽派である。
現在は10回余りの国境を越えた再演を賞とするアンサンブル・アレフ主催国際作曲フォーラムなどで更に若手の国際的作曲家の発掘に余念がない。 イタリアではルチアーノ・ベリオ、ブルーノ・マデルナやルイージ・ノーノのような先駆者の後に、1930年代生まれの作曲家から次々に独創的な作曲家が出現した。ダヴィデ・アンザギ
イタリア
戦後生まれのイタリアの作曲家で、最もよく知られているのは、1947年生まれのサルヴァトーレ・シャリーノである。独学で学んだシャリーノは、フランコ・エヴァンジェリスティに見出され、1970年代に斬新な音色感に溢れた作品を数多く書き、その名を知らしめた。2004年時点でシャリーノの作品のCDが複数のレーベルから21枚も発売、その後もリリースが絶えることがない。ノーノが日本のサントリー音楽財団から委嘱を受けた際、次世代の有望な作曲家として紹介した作曲家は彼である。
その後、イタリアの作曲家たちには「斬新さ」や「新しさ」といった側面があまり見受けられない傾向が進んだ。ファブリチオ・デ・ロッシ・レ、ルカ・ベルカストロ、ジョルジォ・コロンボ・タッカーニといった1960年代生まれの作曲家たちには、シャリーノのような斬新さはない。近年は、リッカルド・ヴァリーニやエマヌエーレ・カザーレといった中堅が活躍している。現在はステファノ・ジェルヴァゾーニ(2006年度以降パリ音楽院教授)やマルコ・ストロッパ(現シュトゥットガルト音楽大学教授)のように、国外で教職に付き、イタリアへ逆輸入する形式で創作する者も目立っている。
第2次世界大戦前生まれの世代では、ジャチント・シェルシとフランコ・ドナトーニが特に良く知られている。シェルシは退院後、フランスのジェラール・グリゼーなどへ指導を行うかたわら、マイペースで作曲活動を行った。そのためイタリア国内では時折紹介されるという形が続いていたが、世界にその名が知られるようになったのは1980年代に入り、ケルンのISCM音楽祭でハンス・ツェンダーが一連の管弦楽曲を指揮してからである。彼のアシスタントを務めたことのある作曲家は、アルド・クレメンティを始めとして数多い。ドナトーニは前衛の時代から活発な創作活動を行っていたが、1977年に「自己否定のオートマティズム」と呼ばれる手法に辿り付いて以来、この方法で作品を多作した。
ドナトーニも亡くなり、名教授ソッリマも没し、イタリア現代音楽を支えた人物の多くは亡くなりつつある。現在はアンドレア・ポルテラ、ロベルト・ルスコーニ、ヴァレリオ・ムラート、オスカル・ビアンキ、アンドレア・サルト、アレッサンドラ・ベッリーノほかの1970年代生まれの戦後以後世代の躍進が目立っている。
イタリアはかつて音楽学校のディプロマは卒業証書ではあっても学位と認められなかった[1] ため、大学とダブルスクールを余儀なくされた作曲家も多い。こうしたことから、イタリアのプロ作曲家はかなりのエリート集団とみなされている。現在はボローニャ協定で音楽学校のディプロマが学位として認可されることになり、今後もこの潮流が継続するのかは不明である。 オランダは前衛音楽に対する拒絶がない国と言われる。それは、ガウデアムス財団
オランダ
オランダでは、同国の現代音楽の黎明期にアルチュール・オネゲルの門下生、シメオン・テン・ホルトがその名を留めている。ホルトは現在も創作活動を行っており、際限のない反復語法を師から受け継いだ後は独自のミニマル書法を展開している。
ルイ・アンドリーセンは、即興音楽を図形楽譜で表現する手法で知られたが、1970年代以後は商業音楽との境界を突き崩し、「物質」四部作により一世を風靡した。