時代劇映画『本能寺合戦』を製作・配給した横田商会は、1912年(大正元年)、他の3社と合併して日活を形成し、時代劇のほかに現代劇を製作するが、当時の時代劇と現代劇の区分は、「旧派」「新派」と呼ばれていた。したがって当時の「日活新派」と呼ばれた現代劇は、女性の役どころは、「新派劇」同様、女形の男性俳優が演じていた。「日活新派」は、1913年(大正2年)10月に開所した日活向島撮影所で製作された。日活新派が、日活現代劇部に変わるのは、1922年(大正11年)12月に舞台協会と提携し、岡田嘉子、夏川静江らが日活の現代劇に出演し始めてからのことである[12]。
新劇の影響下にあって、女形を排し女優を起用した現代劇の最初の作品は、1919年(大正8年)に帰山教正が監督した『深山の乙女』と『生の輝き』である。花柳はるみが日本の映画女優第一号となった。帰山の映画芸術協会の製作した現代劇は、天然色活動写真(天活)が配給した。その1年後の1920年(大正9年)2月には、松竹キネマ合名社が設立され、新劇の小山内薫を校長に据えた松竹キネマ俳優学校を設置、伊藤大輔、鈴木伝明、沢村春子らを育成[13]、同年6月に松竹キネマ蒲田撮影所を開所、小山内直轄チームが村田実を監督に『光に立つ女』を製作したのが最初である[13]。
「時代劇は京都、現代劇は東京」という棲み分けは、戦前の日活における「新劇の向島、旧劇の京都」に始まるが、東京でも巣鴨の河合映画、大都映画は時代劇を量産しており、その限りではなかった。戦後、1951年(昭和26年)の東映の設立と、剣戟映画を得意とした阪東妻三郎プロダクションを起源とする東映京都撮影所、新興キネマ東京撮影所を起源とする東映東京撮影所のデュアル・プロダクション体制が、その棲み分けを決定的なものにし、現在に至る。
テレビドラマ - ホームドラマから始まる詳細は「テレビドラマ#歴史」を参照
テレビドラマにおける現代劇は、1940年(昭和15年)4月、テレビの実験放送で放送された日本初のテレビドラマ、伊馬鵜平(のちの伊馬春部)作『夕餉前』である[14]。同作はNHK放送技術研究所のスタジオからの生放送のドラマであった。演出はのちに日本放送協会の会長を務めた坂本朝一らであった。伊馬はムーランルージュ新宿座の座付作家で、当時ラジオドラマを手がけていた人物である。同作は、のちにテレビドラマの現代劇における主要ジャンルとなるホームドラマの第1作でもあった。
第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)にテレビの本放送が始まるが、生放送ドラマが主流であった。最初のビデオテープによる収録ドラマの放送は、1958年(昭和33年)、大阪テレビ放送(OTV、現在の朝日放送)が製作した『ちんどん屋の天使』であり、ラジオ東京テレビ(KRT、現在のTBSテレビ)の『私は貝になりたい』であったが、これらは収録ドラマにおける現代劇の最初でもあった。 時代劇以外の多くが現代劇である以上、リストの作成は不可能である。 演劇、とくに新派に関しては、新派#主な演目、映画に関しては、時代劇を含めたものである日本の映画作品一覧、テレビドラマに関しては、時代劇と特撮を除いたものである日本のテレビドラマ一覧を参照、主な日本の特撮作品にも現代劇は数多く存在する。
おもな現代劇
註[脚注の使い方]^ 現代劇
^ 時代劇、デジタル大辞泉、小学館、コトバンク、2009年11月9日閲覧。
^ 時代劇映画、百科事典マイペディア、日立システムアンドサービス、コトバンク、2009年11月9日閲覧。
^ ⇒現代劇、大辞林第二版、三省堂、dictionary.goo.ne.jp, 2009年11月9日閲覧。
^ ⇒世話物、大辞林第二版、2009年11月9日閲覧。