班田
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そもそも、均田制や租庸調は粟を主食・徴税対象としていた華北・中原(旧北朝地域)の支配に則した制度であり、稲を主食・徴税対象としていた華中・華南(旧南朝地域)では完全に実施されていなかった可能性もあり、日本の班田収授法は牛が耕作に広く導入されていた華中・華南の水田耕作規模と比較しても過大であったとする指摘もある[6]。また、班田収授法に基づいて班給・収公される「公地」が、本当に実態として存在したのかにも疑問が呈されている(公地公民制を参照の事)。

班田収授が行われなくなって以降、それ以前に班給された「公地」は、実質上農民の私有地となっていった。そして最終的には国衙領として、国司の領地のごとき存在となっていく(荘園公領制)。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ これに対し、不輸租田では収穫物全て(もしくは大半)を耕作者の直接収入とすることが認められた。
^ 田租は面積を基準としその公定収穫量の3%と規定された。
^ 租税国衙郡衙へ移送し収納することを輸租と呼んだ。
^ 功田賜田の一部については規定により、一代以上に亘る相続が認められた。
^ 養老律令の田令において五年以下(=6歳未満)には班田が行われないとされているが、その背景には当時の乳幼児(6歳未満及び最初の班田を受けるであろう6歳から11歳の世代)の死亡率が極めて高く、班田した口分田を次の班田時に収公して新たな班田に回すといった業務の複雑化を避けると共にそれらの世代に十分に供給する口分田がなかったからとみられている。なお、北村安裕による大宝律令の田令の復元によれば大宝律令では6歳未満にも口分田が支給されていたが前述の問題が生じたために養老律令において修正されたとする(北村安裕「大宝田令六年一班条と初期班田制」小口雅史 編『律令制と日本古代国家』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-804-9 P185-205.)。
^ ただし、914年(延喜14年)及び926年延長4年)の班田については、前後に班田の実施を前提とした田地に関する太政官符が出されている(『別符類聚抄』所収延喜14年8月8日官符及び『政事要略』所収延長3年12月14日官符)ことから、一部実施されたとする説もある(佐々木宗雄『平安時代国政史研究』校倉書房、2001年)。更に班田制を土地認定機能とそれに基づいた土地分配機能からなるとする観点から、前者に基づく校田帳の作成・提出とこれに基づく勘出天慶年間まで続いていたことが確認できる(承暦2年作成『出雲国正税返却帳』)ことから、班田収授が実施されなくても10世紀前半まではシステムとしての班田制は維持されていたという考えがある(三谷芳幸『律令国家と土地支配』吉川弘文館、2013年)。

出典^ 「はんでんしゅうじゅのほう」という読み方については、『社会科 中学生の歴史』(株式会社帝国書院。平成20年1月20日発行。文部科学省検定済教科書。中学校社会科用)p 38、『新しい社会 歴史』(東京書籍株式会社。平成16年2月10日発行。文部科学省検定済教科書。中学校社会科用)p 38の「班田収授法」には、いずれも「はんでんしゅうじゅのほう」というふりがながふられている。
^ 三谷芳幸「律令国家と校班田」(初出:『史学雑誌』118巻3号(2009年)/改訂所収:三谷『律令国家と土地支配』吉川弘文館、2013年 ISBN 978-4-642-04603-9
^ 吉田孝「編戸制・班田制の構造的特質」『律令国家と古代の社会』(岩波書店、1983年)P208.
^ 『村山光一著『研究史班田収授』(1978・吉川弘文館)』、小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)「班田収授法」[1]
^ 『村山光一著『研究史班田収授』(1978・吉川弘文館)』、小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)「班田収授法」[2]
^ 古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年 ISBN 978-4-639-02208-4 P68-72・508-510

関連項目

律令制

公地公民制

公田

校田

太閤検地

地租改正

地籍調査

墾田永年私財法

典拠管理データベース: 国立図書館

日本


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