章帝は文学を好み、班固は高く評価された。帝は経典の本文に関する白虎観での論争の経緯を班固に編纂させた。
その後、母の喪のために官を辞したが、永元元年(89年)に竇憲に従って匈奴と戦った。班固が竇憲の勝利を記念して書いた「封燕然山銘」(燕然山は現在のハンガイ山脈)が『文選』に載っている。2017年8月14日に中国で報じられたところによれば、中国の内モンゴル大学蒙古学研究センターとモンゴルのチンギス・ハーン大学が共同で同年7月27日から2週間かけて行った実地調査により、この石碑がハンガイ山脈に現存することが確認された[2]。
永元4年(92年)、竇憲が失脚すると、班固もまた竇憲一派とされてこの事件に連座して、獄死した。
『漢書』の未完の部分は妹の班昭が引き継いで完成させた。
著名な作品
『漢書』 - 前漢の歴史を記す。王朝ごとの断代史として中国最古。
『白虎通義』 - 白虎観における経典に関する論争をまとめたもの。
「両都賦」 - 前漢の長安と後漢の洛陽の二つの首都のどちらが優れているかを比べ、洛陽に軍配を上げる。『文選』の冒頭に載せる。『文選』には「幽通賦」「答賓戯」など、班固の作品8篇を載せている。
「詠史」詩 - 淳于意について歌った詩。作者のはっきりした五言詩としてもっとも古い[3]。
脚注^ 班彪の『後伝』の篇数を65とするのは唐の劉知幾『史通』外篇・古今正史による。『後漢書』では数十篇、王充『論衡』超奇篇では百篇以上とする
^ “後漢が北匈奴に勝利記した石碑、モンゴルで発見―中国紙”. Record China. 2017年8月16日閲覧。
^ 『史記』扁鵲倉公列伝 につけられた『史記正義』に引用されている。また『文選』巻36の王融「永明九年策秀才文」の李善注にも引く。「詠史」の題は鍾エ『詩品』による。
原典訳注
『中国古代の歴史家たち―司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』、福井重雅編訳、早稲田大学出版部、2006年
関連項目
目録学
芸文志
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