「珍」の語義については、ウィクショナリーの「珍
」の項目をご覧ください。
讃
(421, 425年)珍
(438年)
済
(443, 451年)
興
(462年)武
(478年)
賛彌
済
興武
『日本書紀』の天皇系譜
(数字は代数、括弧内は和風諡号)
15 応神
(誉田別)
16 仁徳
(大鷦鷯)
17 履中
(去来穂別)18 反正
(瑞歯別)19 允恭
(雄朝津間稚子宿禰)
20 安康
(穴穂)21 雄略
(大泊瀬幼武)
珍(ちん、彌)または倭 珍(わ ちん、生没年不詳)は、5世紀前半(古墳時代中期)の倭王[1]。「倭王珍」とも[1]。
讃の弟で、「倭の五王」の1人。第18代反正天皇に比定する説が有力視されるが[2][3][4]、第16代仁徳天皇に比定する説もある[1][5]。『宋書』では讃が死んだ後、王位についたと書かれているが、死んだ、または退位したという記事は無い。倭の五王のうち、最後の武を除けば、死んだと書かれていない唯一の王である。 『南史』夷貊伝 倭国の条(南史倭国伝)では、『宋書』列伝の内容が記述されている。 高句麗王・百済王・倭王の将軍号変遷表[9]
記録
宋書.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに宋書倭国伝の原文があります。
『宋書』列伝
夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、兄の讃の死後に珍が王に立ち、宋に遣使貢献し「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称して上表文を奉り除正を求めたところ、文帝は「安東将軍 倭国王」とするよう詔したとする[6][7]。また、珍が倭隋ら13人に対する平西・征虜・冠軍・輔国将軍号の除正も求めたところ、文帝は詔して全て認めたとする[6][7]。この後、珍が死んだという記事が無いまま、突然「倭国王済」の遣使記事が現れる。済が王位についたという記事も無い。当然、続柄も書かれていない。
『宋書』本紀
文帝紀 元嘉7年(430年)正月是月条では、倭国王が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする(讃または珍、またはその間の王の遣使か)。また文帝紀 元嘉15年(438年)己巳条では、倭国王の珍を「安東将軍」となしたとする[6]。さらに文帝紀 元嘉15年(438年)是歳条では、武都王・河南国・高麗国・倭国・扶南国・林邑国が遣使して方物を献上したとする。
梁書
『梁書』列伝
諸夷伝 倭の条(梁書倭伝)では、倭王の「賛」の死後に弟の「彌」が立ち、その死後には子の済が立ったとする[8]。
南史
(黄色は第二品、緑色は第三品。色の濃さは同品内の序列を表す)年高句麗百済倭
317年<東晋建国>
372年鎮東将軍(余句)
386年鎮東将軍(余暉)
413年征東将軍(高l)
416年征東大将軍(高l)鎮東将軍(余映)
420年<宋建国>
鎮東大将軍(余映)
421年(安東将軍?(倭讃))
438年安東将軍(倭珍)
443年安東将軍(倭済)
451年安東大将軍(倭済)
(安東将軍?)
457年鎮東大将軍(余慶)
462年安東将軍(倭興)
463年車騎大将軍(高l)
478年安東大将軍(倭武)
479年<南斉建国>
鎮東大将軍(倭武)
480年驃騎大将軍(高l)鎮東大将軍(牟都)
490年鎮東大将軍(牟大)
494年征東大将軍(高雲)
502年<梁建国>
車騎大将軍(高雲)征東大将軍(牟大)征東将軍(倭武)
(征東大将軍?)
考証
「珍」・「彌」・「禰」について
『宋書』の「珍」は、通説では『梁書』の「彌」と同一人物とされる。これは、「珎(珍の俗字)」と「弥(彌の俗字)」に混同が生じやすいため、『梁書』の方で誤写が生じたものと解される[10][4][8]。一方、「珍」と「彌」とは別人と見て、実際には「倭の六王」とする説もある[10][4]。そのほか武の上表文に「祖禰」と見えることから、武の祖父に「禰」を想定して、これと珍を同一視する説もある[11][12]。ただし一般には、その「禰」は単に廟の意と解されて、「祖禰」は先祖の意と訳される[6][7][13]。
使持節 都督について
珍は遣使で「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事」を自称しているが、自称であるため、前王の讃の時点では任官されていなかったと見られる[14]。実際に倭がこれらの国々に軍事的影響力を持ったとは疑わしく(慕韓は百済の影響下、新羅・秦韓は高句麗の影響下にあった)、高句麗が要求の必要性を感じていなかった隙を突いた様子が示唆される[14]。宋はこの自称を認めなかった。この後、珍は死なず『宋書』倭国伝の記事から消え去り、済が現れる。
430年記事について
『宋書』文帝紀の元嘉7年(430年)記事では、遣使主体は「倭国王」とのみ記され、名前を明らかとしない。これに関して、新王の遣使ならば冊封を受けるのが通例などとして主体を讃とする説が有力であるが[10][4][6]、主体を珍とする説もある[10]。この年は『古事記』では履中天皇の治世に当たり、讃(仁徳天皇)でも珍(允恭天皇)でもない第三の王となる。
倭隋らの任官について
『宋書』倭国伝では、珍の任官の際に倭隋ら13人も将軍号の任官を受けたと見える。この倭隋の詳細は明らかでないが、倭王と共通する「倭」姓であるため、ヤマト王権内では王族将軍が支持基盤であったことが示唆される[10][4]。ただし平西将軍は安東将軍と同じ第三品で、品内でも1階しか違わないことから、当時の倭では王と同程度の人物が補佐する統治構造であったとする説[15]、その様子と百舌鳥古墳群・古市古墳群の並立との対応をみる説もある[14]。