王莽
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『漢書』元后伝によると、太皇太后として伝国璽を預かっていた王政君は、玉璽の受領にやってきた王莽の使者王舜(王莽の従兄弟)に対して向かって王莽を散々に罵倒し、それでも玉璽の受領を迫られると玉璽を投げつけて「お前らは一族悉く滅亡するであろう」と言い放ったと伝えられている[3]

前漢後漢のあいだに、簒奪した王莽によって、三日天下のようなという王朝が建てられるが、この時期に高句麗征討が行なわれている。高句麗を討伐した王莽は、その国名を「下句麗」と改名させた[4]中華王朝にとって、帰順しない 蛮夷の国に、高いなどという良い意味の漢字を用いたくなかった[4]。そこで、高句麗あらため下句麗と命名した[4]

王莽は周代の治世を理想とし、『周礼』など儒家の書物を元に国策を行った[5]。だが、現実性が欠如した各種政策は短期間に破綻した。また匈奴高句麗などの周辺民族の王号を取り上げ、華夷思想に基づく侮蔑的な名称(「高句麗」を「下句麗」など)に改名したことから周辺民族の離反を引き起こし、その討伐を試みるも失敗。さらには専売制の強化(六?)なども失敗し、新の財政は困窮した。

そうした中、農民・盗賊・豪族が与した反乱が続発(赤眉の乱緑林軍など)。緑林軍の流れを汲む劉玄(更始帝)の勢力を倒そうと王莽が送った公称100万の軍勢も昆陽の戦いで劉玄旗下の劉秀(光武帝)に破られるなど諸反乱の鎮圧に失敗し、各地に群雄が割拠して大混乱に陥る。地皇4年(23年)、遂には頼みの臣下にも背かれ、長安城には更始帝の軍勢が入城、王莽はその混乱の中で杜呉という商人に殺された。享年68。これにより新は1代限りで滅亡した。王莽の首級は更始帝の居城宛にて晒され[6]、身体は功を得ようとする多くの者によって八つ裂きにされたという。
容貌について

口が大きく顎が短く、出目で瞳が赤く、大きなガラガラ声を出した。身長は5尺7寸(約173cm)もあるのに、底の厚い靴と高い冠を好み、ゴワゴワした張りのある毛を衣服に入れ、胸を反らして高いところを見、遠くを眺めるような目つきで左右の目を見ていた
[7]

ある人が王莽の容貌についてどう思うか、方技(占いなどの技術)に優れた黄門で待詔している人物にたずねたところ、その人物は、「王莽はフクロウの目、虎の口、豺狼の声の人物です。人を食うこともいたしますが、また、いずれ、人に食われるでしょう」と答えた。質問した人物がこのことを王莽に告げたところ、王莽は、その黄門で待詔している人物を処刑し、告発した人物に爵位を封じた。それから後は、王莽は、いつも雲母の扇を顔の前にかざすようになったため、近親するものでなければ、その顔を見ることはできなくなった。(始建国2年(10年))[7]

王莽に対する反乱が大きくなってきた頃、王莽はそれを聞いてますます怯え、安心な様子を示そうとして、ひげや髪の毛を黒く染めた(地皇4年(23年)3月)[8]

20世紀の中国史研究者である東晋次は、「けして美男、偉丈夫というわけではない。かかとの厚い靴を履いたのは、あるいは身長に劣等感を感じていたからだろうか。風貌の叙述にも、当時の人々の王莽への嫌悪が見え隠れするようである」と評している[9]
人物について

王莽は「名」に極めて敏感であった。王莽は、種々の名称変更を行い、年ごとに、土地の地名を変更し、ある郡は五回もその名を変えた。しかも、その後、元の地名に戻ることもあった。役人や民衆はおぼえることもできないほどであった
[7]。その背景として、孔子の「必ずや名を正さんか」という言葉や、「名」の呪術的な信仰、漢の伝統から自分や自分の政権を断ち切ろうとするための行いであったことが考えられる[10]

信仰心という点では、鬼神に対して心の底から畏怖を感じていた。特に、漢の高祖(劉邦)の霊には恐怖心をいだいていた。また、符命や符瑞による天命の存在の確信は、政治的な詐欺の手段というだけでなく、王莽も内心では信じていたと考えらえる。また、神仙への希求があり、方術の士と方薬の実験にふける面があり、(かつて反乱を起こした)?義の党であった王孫慶を生きたまま、解剖させるようなことを行っている[11]

政治や政策立案の特徴として、形の重視、形から入っていく発想が中核となっている点があげられる。儒教の「」を重視し、国家的規模で儒家的礼制を現実のものにしたいと意欲しており、形式を重んじた。そのために、形式主義におちいり、現実的ではないという批判が生まれることになった。また、同時に、儒家的理念にそった政策を実現するため、多くの法律を増設して、それを家族や腹心の大臣にも厳しく執行していった[12]

政治家としては、政治改革の志向を若い時期からいだき、細心の注意を払って、自己の政治的地位の保全と権力掌握に成功する優れた能力を有していた。皇帝に即位してからも礼制国家の実現への努力は怠らなかった。しかし、その理想を実現しようとするほど、多くの権力者と同様、独断専行となり、周囲の意見に耳を貸さない、独善的・猜疑的な態度を示すようになった[13]

政治志向と後世への影響について

王莽は政治的な目的として、当時、孔子によって唱えられ、儒家の経書に継承されていると考えられていた
代の礼(儀礼)や楽(音楽)を、儒家的な教説とともに、漢や新の国家の諸制度に具現化する「制礼作楽[14]」の事業の完遂をかかげていた。王莽はそのために、政治の実権を握った漢の平帝時期にあたる元始年間に、精力的に儒家的な礼制整備を行った。王莽によって、先鞭をつけられた儒家の教説による国家的儀礼は、後漢王朝に引き継がれ、後漢王朝が原型となって、その後の中国の諸王朝が礼教国家としての性質を帯びるようになっている[15]

そのため、王莽は、儒家的教説の制度化に大きな功績をあげ、漢の「儒教の国教化」に貢献した。20世紀の中国史研究家である西嶋定生は、王莽を儒教国教化の完成者であるととなえている[16]

王莽の社会政策の中で後世に影響したものとしては、始建国元年(9年)に施行した「王田制」がある。


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