王羲之
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^ 初唐の三大家三筆三跡など。
^ しかし羲之自身は武人を志しており、中央政界での出世は、あまり望まなかったという。
^晋書』王羲之伝によると、王羲之は前任の会稽内史であった王述を軽んじていた上、彼が母の喪に服していたときも、一度しか弔問に訪ねなかったことから、王述は王羲之を恨むようになったという。また『世説新語』仇隙篇によると、王羲之は王述の母の弔問に赴くといっては、たびたび取り下げ、ようやく訪れたときも、喪主の王述が哭礼している前に進み出ず、そのまま帰ってしまうなど、王述を大いに侮辱したという。
^法書要録』(張彦遠編)第4巻に収録された『二王等書録』(張懐?撰)に、「右軍書大凡二千二百九十紙,裝為十三帙一百二十八卷:真書五十紙,一帙八卷,隨木長短為度;行書二百四十紙,四帙四十卷,四尺為度;草書二千紙,八帙八十卷,以一丈二尺為度。」とある(『二王等書録』の原文)。
^ 沙門(しゃもん)とは、のこと。
^ 顆(か)は印鑑を数える単位。
^ 『右軍書記』(ゆうぐんしょき)は、張彦遠二王の書跡の全文を集録したもので、草書の尺牘が最も多い。『法書要録』第10巻に収録されている[17]
^ 筆跡中、「遊目」と草書で書かれている。
^ 足下行穣九人還(改行)示應決不。大都當佳[24]
^ 意味:王羲之の文字でなければ、文字ではない。

出典^ 比田井南谷 P.108
^ 飯島春敬 P.56
^ 比田井南谷 P.110
^ 「王羲之書字勢雄逸,如龍跳天門,虎臥鳳闕」(『古今書人優劣評』の原文)。
^ 西林昭一 P.106
^ a b 飯島春敬 P.57
^ a b 鈴木洋保 PP..18-19
^ 中田勇次郎 P.10
^ 比田井南谷 P.115、PP..117 - 118
^ a b 内藤乾吉 PP..167-168
^ 飯島春敬 P.58
^ 中西慶爾 PP..279-280,515
^ 木村卜堂 P.115
^ 西林昭一 P.123
^ 藤原鶴来 P.64
^ 中西慶爾 P.99
^ 中西慶爾 P.792
^ 藤原楚水 P.418
^ 書論研究会 P.57
^ 内藤乾吉 PP..169-170
^ 中西慶爾 PP..479-480、P.929
^ 飯島春敬 P.61
^ 比田井南谷 P.118
^ 内藤乾吉 P.169
^ 内藤乾吉 PP..168-169
^ 比田井南谷 PP..117-118
^ 楊仁ガイ
^ 中田勇次郎 P.191
^ 西林昭一 P.133
^ 中田勇次郎 PP..190-191
^ 飯島春敬 P.59
^ 中西慶爾 P.407

参考文献

木村卜堂日本と中国の書史』(日本書作家協会、1971年)

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