王維
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東晋陶淵明の田園詩や南朝宋謝霊運の山水詩を受けつつ、よりダイナミックに自然の美を詠う自然詩は王維より始まった。また、深く傾倒した仏教の影響も窺える。
著名な作品

鹿柴
原文書き下し文翻訳
空山不見人空山 人を見ずひっそりとした山に人影もなく
但聞人語響但だ人語の響きを聞くただかすかに人の声だけが聞こえる
返景入深林返景 深林に入り斜陽が深い林の中に差し込み
復照苔上復た青苔の上を照らすまた青い苔の上を照らし出す


送元二使安西元常(元二)の安西に使いするを送る
原文書き下し文翻訳
渭城朝雨?輕塵渭城(いじょう)の朝雨 軽塵(けいじん)を?(うるお)す渭城の朝の雨が道の埃を落ち着かせ
客舎青青柳色新客舎(かくしゃ) 青青 柳色新たにす旅館の柳も青々と生き返ったようだ
勸君更盡一杯酒君に勧む 更に尽くせ一杯の酒さあ君、もう一杯やりたまえ
西出陽關無故人西のかた 陽関を出づれば故人無からん西方の陽関を出てしまえばもう酒を交わす友もいないだろう

画の特徴とその評価

画の描き方について論じた「画学秘訣」という文を残した。 [4]

水墨画にすぐれ、画師たちに、その筆致は「天機」によるもので、学んで及ぶものではないと評価された。彼は、墨だけによる「白描画」を描き、工人たちに彩色させていた。画風は呉道玄に似ていたが、風格は傑出したものがあった。鄭虔畢宏とともに三絶と呼ばれた。同時代の李思訓に勝るという評価もある。

晩唐の張彦遠は「歴代名画記」において、画法に通じ、筆力は力強いものがあると評価しているが、同時に技巧に走りすぎているという批判もしている。

同じく、晩唐の朱景玄は「唐朝名画録」において第4位「妙品上」に評価しており、その作品群を絶賛している。

北宋蘇軾も「詩中に画あり。画中に詩あり」と称している。

山水画において、後世にも不動の地位を得ており、代には北宗画の祖と呼ばれる李思訓に対し、南宗画(南画文人画)の祖とされた。

また、馬の画家として知られる韓幹を若い頃にその画才を見いだし、資金援助を行い、画の勉強をさせ、大成に導いたというエピソードも残っている。
?川

?川は、長安の東南に位置する藍田県にある、藍田山と嶢山の間から流れ、ハ水に注ぐ川である。王維は、その源流の30唐里ほど南のところに、かつて宋之問が別荘としていた土地を買い上げ、自分の別荘を建てた。近隣には多くの長安の名士たちが別荘を構えていた。これは、当時の道教仏教の思想の融合した山間隠棲の風習にのったもので、王維によって、その流行が促されたとされる。

王維は開元年間より住み始め、天宝9載(750年)頃にほぼ完成する。そこで、同じく別荘を構えていた銭起らと交際していた。王維が清浄を好み、潔癖さを伝える説話も存在する。王維が友人の裴迪と交わした詩は「?川集」としてまとめられた。一貫して、清浄に対する憧憬と幽遠の表現がテーマとなっている。

王維の別荘は、北?・南?という宅院、文杏館・竹里館・臨湖亭という茅亭、華子岡・斤竹嶺という岡、鹿柴・木蘭柴という囲い、漆園・椒園という園、辛夷塢・宮槐陌という道、孟城?という名跡、金屑泉という泉、欹湖という湖、茱萸?・柳浪・欒家瀬・白石灘という名所があり、「?川集」に全て題材としてとられている。これを画に写したものは「?川図」と名付けられ、転写されたものが世に流布し、唐末には各地で眺められ、刺青として入れるもの、料理にそれを形作ったものもあったと伝えられる。
「?川集」[5][6]

「?川集」序には次のようにある。

「私の別荘は?川の山谷にあり、別荘の近くには孟城?・華子岡・文杏館・斤竹嶺・鹿柴・木蘭柴・茱萸?・宮槐陌・臨湖亭・南?・欹湖・柳浪・欒家瀬・金屑泉・白石灘・北?・竹里館・辛夷塢・漆園・椒園などがあった。裴迪と静かに各々絶句を賦した。」

「?川集」には序文中の孟城?以下20の場所において王維が賦した20首、裴迪が賦した20首の計40首が収められている。

?川の詩は前後と繋がっており、詩の順序は意識的に構成されている。詩の意味とその関連は平仄と「桃花源記」・「桃源行」・「藍田山石門精舎」によって裏付けられているという研究がある。[7]

孟城?原文書き下し翻訳
新家孟城口新たに家す孟城の口(ほとり)新しく孟城の?口に家を設けた
古木餘垂柳古木垂柳を餘す古木としてはただ垂柳があるのみだ
來者復爲誰來者は復誰と爲す今ここに住もうとする者は私だけだが、将来の持ち主はいったい誰か
空悲昔人有空しく悲しむ昔人の有なりしを同じく昔の持ち主として私も空しく悲しまれるのであろう

華子岡原文書き下し翻訳
飛鳥去不窮飛鳥去りて窮まらず華子岡を飛び去る鳥は、無数に皆飛んで去る
連山復秋色連山復秋色連山を見るに復秋色をあらわしている
上下華子岡上下す華子岡華子岡を上ったり下ったりすると
惆悵情何極惆悵情何ぞ極まらんいつか悲しく思いは尽きない

文杏館原文書き下し翻訳
文杏栽爲梁文杏栽して梁と爲し文杏館は杏樹で梁が作られていて
香茅結爲宇香茅結んで宇と爲す草葺で屋宇が作られている
不知棟裏雲知らず棟裏の雲梁棟の裏より生じた雲が
去作人間雨去りて人間の雨と作ることを家から出て人間世界の雨となろう

斤竹嶺原文書き下し翻訳
檀欒映空曲檀欒空曲に映じ竹の美しい茂みはひっそりとした流れに影を落とし
青翠漾漣?青翠漣?に漾ふ竹の緑はさざ波に漂う
暗入商山路暗に商山の路に入る斤竹嶺を過ぎて暗に商山の路に入れば
樵人不可知樵人知るべからずきこりも気づかない

鹿柴原文書き下し翻訳
空山不見人空山人を見ずひっそりとした山に人影もなく
但聞人語響但人語の響きを聞くただかすかに人の声だけが聞こえる
返景入深林返景深林に入り斜陽が深い林の中に差し込み
復照青苔上復青苔の上を照らすまた青い苔の上を照らし出す

木蘭柴原文書き下し翻訳
秋山斂餘照秋山餘照を斂め秋の山は夕日をのみ込み
飛鳥逐前侶飛鳥前侶を逐ふ飛鳥は帰りを急ぐ
彩翠時分明彩翠時に分明美しい草木の緑は鮮やかであり
夕嵐無処所夕嵐処所無し山靄のかかるところはない

茱萸?原文書き下し翻訳
結実紅且緑実を結んで紅にして且つ緑茱萸が実を結び紅色緑色とあり
復如花更開復花更に開くが如しその実が美しく再び花が咲いたようだ
山中儻留客山中?し客を留めばこの山の中で客を留宿させることがあれば
置此芙蓉杯此の芙蓉杯を置かん芙蓉杯に茱萸の実を入れて飲むことを薦めよ

宮槐柏原文書き下し翻訳
仄径蔭宮槐仄径宮槐に蔭し傾斜したこみちは離宮の槐に蔽われ
幽陰多緑苔幽陰緑苔多しおぐらい日陰は苔むす緑ばかり
應門但迎掃應門但迎掃す客を迎える者が地面を掃うのは
畏有山僧来畏らくは山僧の来る有らんことを客として山僧が来ることを畏んだのだろう

臨湖亭原文書き下し翻訳
軽舸迎上客軽舸迎へて客を上せ軽やかな舟でお迎えして客を乗せて
悠悠湖上来悠悠として湖上に来るのどかに湖面の中心に来る
当軒対樽酒軒に当たりて樽酒に対すれば窓に面して樽酒に向かえば
四面芙蓉開四面芙蓉開く東西南北に尽く芙蓉の開いているのが見える

裴迪

王維の「?川集二十首」に唱和した詩人であり、また天宝十五載に王維が安禄山の乱に巻き込まれて賊軍に囚われた時も側を離れず、王維の口号詩を伝えた人物である。現存する二十八首の詩はすべて王維との唱和、贈答詩であり、『王右丞文集』に収められたことによって残った。裴迪は開元4年に生まれ[8]、天宝3・4載に王維・王昌齢らと長安の青龍寺に訪れ詩を唱和した[9]。天宝中に王維・盧象らと崔興宗の林亭を訪れ詩を唱和した[10][11]。(以下、入谷仙介氏[12]、と陣内孝文氏に基づく。


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