王?
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西晋の時代に当たる泰始元年(265年)、皇帝司馬炎は、王?とケ艾が罪を得た時に素直にそれに伏したことを考慮して大赦し、子孫がいなくとも後継者を立てることを許した[8]

なお、小説『三国志演義』には登場しない。
一族

子は王広・王飛梟・王金虎・王明山といった[9]。王広は王?から、曹彪擁立の計画を打ち明けられていたが、これを諫止していた。飛梟と金虎は人並み外れた才能と武勇を誇り、末子の明山は兄弟の中で一番著名で、弓術や書芸など多彩な技芸を有していた。?済は司馬懿に「王?は文武を兼ね備えた古今無双の存在ですが、息子たちの志と力は父に勝るものがあります」と語っている。いずれも王?に連座して誅殺された。

妹は郭淮の妻だったが、王?に連座して逮捕される。郭淮は配下の嘆願を受けても妻を救助しようとしなかったが、郭統ら息子5人が叩頭して救助を懇願するとさすがに耐え難く、配下を派遣してこれを奪還した。その後、郭淮は司馬懿に「5人の息子が母を憐んでおり、もし母に死を賜れば彼らはその後を追うことでしょう。また5人の息子を亡くせば、私もすぐにその後を追うことになるでしょう」との文書を送り、放免された[10]

南北朝時代、王?の一族[11]に当たる宋 (南朝)王玄謨は幼少期から優秀さを称えられ、「太尉の彦雲(王?)の風有り」と評された[12]
出典

陳寿『三国志』巻28 魏書 王?伝

脚注^ 范曄後漢書』王允伝。王?らは王允の兄の子で、王允と共に兄の王宏も殺害されているが、「王?の父が王宏」とは明言されていない。
^ 『三国志』魏書王?伝注『魏略』によると、県長であった時にある事件に触れて?刑となり、道の掃除をしていたが、通りかかった曹操に王允の甥であることから放免され、驍騎主簿に登用されたという。
^ a b 『三国志』魏書 文帝紀
^ 『三国志』魏書 王基伝
^ 『三国志』魏書 明帝紀
^ a b 萬斯同『魏方鎮年表』
^ 『三国志』魏書 満寵伝及び注に引く『世語』
^ 『三国志』魏書 ケ艾伝
^ 王広以外は字で、諱は不詳。
^ 『三国志』魏書 郭淮伝注『世語』
^ 王?の従兄弟・王?の六世孫。
^ 沈約宋書』王玄謨伝










陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷

(魏書)

巻1 武帝紀

太祖武皇帝曹操

巻2 文帝紀

文皇帝曹丕

巻3 明帝紀

明皇帝曹叡

巻4 三少帝紀

斉王曹芳

高貴郷公曹髦

陳留王曹奐

巻5 后妃伝

武宣卞皇后

文昭甄皇后

文徳郭皇后

明悼毛皇后

明元郭皇后

巻6 董二袁劉伝

董卓

李?




袁紹

袁譚

袁尚


袁術

劉表

巻7 呂布臧洪伝

呂布

張?

陳登


臧洪

陳容


巻8 二公孫陶四張伝

公孫?

公孫度

公孫康

公孫恭

公孫淵


陶謙

張楊

張燕

張?

張魯

巻9 諸夏侯曹伝

夏侯惇

韓浩

史渙


夏侯淵

曹仁

曹純


曹洪

曹休

曹肇


曹真

曹爽

曹羲

曹訓

何晏

ケ?

丁謐

畢軌

李勝

桓範


夏侯尚

夏侯玄


巻10 荀ケ荀攸賈?伝

荀ケ

荀ツ

荀?(中国語版)

荀?(中国語版)


荀攸

賈?

巻11 袁張涼国田王?管伝

袁渙

張範

張承


涼茂

国淵

田疇

王修

?原

管寧

王烈

張?(中国語版)

胡昭


巻12 崔毛徐何?鮑司馬伝

崔?

毛?

徐奕

何?

??



司馬芝

司馬岐(中国語版)


巻13 鍾?華?王朗伝

鍾?

鍾毓


華?

王朗

王粛

孫叔然


巻14 程郭董劉?劉伝

程c

程暁


郭嘉

董昭

劉曄

?済

劉放

孫資


巻15 劉司馬梁張温賈伝

劉馥

司馬朗

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張既

温恢

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巻16 任蘇杜鄭倉伝

任峻

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張遼

楽進

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張?

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