王権
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このことに対し、前田徹は「王権を授ける神がエンリルとイナンナに分かれることは、王権に抱くイメージの差によるのであろう」[7]としている。すなわち、エンリル神はシュメール統治にあずかる最高神であり、この神は安定した統治を願う時代に、一方、イナンナ神は外敵を排撃する神であり、この神は拡張主義の時代に、それぞれ王権を授与する神として認識されたものであると考えられる[7]
王位継承の儀式とレガリア

神話や宇宙論、宗教や伝統的な信仰に支えられた「神聖なる王」が制度化するために重要なのが王位継承儀式である。王位継承は、多くの場合、単に統治者としての任務の継承ではなく人が神に変わる経過をたどり、秘儀を含んだ儀礼として劇化される。それは人格の変換を意識される伝統的な通過儀礼といくつかの面で共通点を有しており、人としての死あるいは一定期間の隔離や隠遁、次いで王権のレガリアを身につけた王としての再生、そしてそれを公衆に披露するという一連の儀式として行なわれることが多い。その意味から、王権の永続性は王のレガリアによって象徴されることが多いといえる。

ヨーロッパの王権に見られる王冠王笏宝珠、西アフリカのアシャンティ王国の「黄金の床几」、日本の天皇制における「三種の神器」、中国の歴代皇帝に伝えられてきた伝国璽セイロン島スリランカ)における仏歯などはいずれもレガリアとみなされる。東アフリカのバントゥー族系の諸王国では王権のレガリアは太鼓であった[8]。また、『アーサー王物語』ではエクスカリバーと称するレガリアが登場した。
日本史における王権

古代史学者の山尾幸久は「王権」を、「王の臣僚として結集した特権集団の共同組織」が「王への従属者群の支配を分掌し、王を頂点の権威とした種族」の「序列的統合の中心であろうとする権力の組織体」と定義し、それは「古墳時代にはっきり現れた」としている[9]。一方、白石太一郎は、「ヤマトの政治勢力を中心に形成された北と南を除く日本列島各地の政治勢力の連合体」「広域の政治連合」を「ヤマト政権」と呼称し、「畿内の首長連合の盟主であり、また日本列島各地の政治勢力の連合体であったヤマト政権の盟主でもあった畿内の王権」を「ヤマト王権」と呼称して、両者を区別している[10]。その中で具体的な出雲の地域における王権の存在を示す事例として、意宇郡安来郷の語部の存在を指摘しているもの[誰?]もある。

また、山尾によれば、

190年代 - 260年代 王権の胎動期。

270年頃 - 370年頃 初期王権時代。

370年頃 - 490年頃 王権の完成時代。続いて王権による種族の統合(490年代から)、さらに初期国家の建設(530年頃から)

という時代区分を行なっている[9]

王権に類似する用語である「朝廷」は、「天皇の政治の場」[11]、「天皇が政治を行う場所」[12]という限定された意味であるのに対し、「王権」はまさに王の政治的権力を表すところから「朝廷」よりも広い意味を有している[11]。また、「王権」という言葉を近代的な意味合いを帯びた「国家」という言葉を避けた表現とする見方もある[13]。例えば、上島享は「中世王権」の確立として院権力の出現を挙げており[14]今谷明も、絶対主義化と中央集権を進める足利義満の権力を「室町の王権」と呼称している[15]
古代王権

国家における権力の再生産システムとして、王権継承が揚げられる。王権継承において中心となる主体が大王であり、天皇であったが、継承に際して制度的機制を持たない時代が長くつづいた。大平聡は、天皇位の制度的継承の確立、すなわち平安時代初期における皇太子制の成立が王権継承の古代的完成であると位置づけ、そのいっぽうで、平安時代に入ってからの官僚機構の再編が天皇の地位認識の変化(幼帝化)へとつながったと論じている[16]。また、春名宏昭は、当初天皇として即位する予定のなかった光仁天皇桓武天皇は、そのためみずから天皇としての正統性を獲得しようと努めたのであり、その点が奈良時代までとは異なる平安時代の皇室の創出につながったとしている[17]
補説.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "王権" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2010年1月)

古来より集団の中には族長長老など)が存在した。その長の、集団に対する決定権が発達したものが王権と見なされている。王の決定に集団が従う、という構造は生存のための条件が厳しかった古代においてはある程度受け入れられてきたと考えられる。ただ古代ギリシアポリスにおける限定的な民主政治のような形態も存在したため、生存条件の比較的緩やかな地域においては、他国の制度の受け入れのような形で王権が発生した場合もある。実際に東南アジア地域では中世まで国家という枠組みそのものが存在していなかった地域もある。

各国の歴史が語るように本来地域集団に対して多大なる貢献があった人物が王になるのが一般的であるが、王の後継者にそのような業績が無い場合は血縁であるという以外に王になる理由は存在していない。そのことに不満を持つ者による後継者争いは歴史を動かす大きな原動力となっている。これは、王権は奪い取ることのできるものという認識が存在していた傍証でもある。それを避けるためにも地域・時代によってさまざまな、王権を奪われないように権威付けする努力が見られた。その一つがヨーロッパで発生した王権神授説である。また帝国君主である皇帝による“帝権”も、王権と意味はほぼ同様である。

また古代中国や中世ヨーロッパにおいては、王は皇帝または教皇の下の爵位であり、王権は与えられるものであった。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ この場合は残部議会であり、この政府を指して『リヴァイアサン』と言っている。口絵に描かれている王冠を被った『リヴァイアサン』は政府に対して自らの自然権を譲渡した人々によって構成されている。

出典^ 『古代王権の誕生』(2003)はしがき
^ 松島(2003)p.125-135
^ 山我(2003)p.196-203
^ イブン・ハルドゥーン『歴史序説』森本訳(2001年)
^ 石澤(2005年)
^ 前田(2003年)p.90-91
^ a b c 前田(2003年)p.21
^ 渡辺(2009年)
^ a b 山尾(2005年)


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