王政復古_(日本)
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また、翌元治元年(1864年2月に将軍・家茂が上洛すると、参預諸侯は老中部屋への参入も許された。ここにはじめて、天皇と将軍の下に一元化され、親藩・外様雄藩が合議する公議政体が発足した。
参預会議の頓挫と一会桑体制「参預会議」も参照

ところが、一橋派の将軍候補であり薩摩藩がその擁立に心血を注いできた慶喜自身、この時点では公議政体志向の持ち主ではなかった。久光の主導権を快く思わない慶喜は、将軍が朝廷に攘夷実行を誓約していることを楯に横浜鎖港を主張し、参預諸侯との間に摩擦を生じる言動をとり始める。諸侯は相次いで帰国し、参預会議はごく短期間のうちに瓦解することとなった。

参預会議瓦解後の同年3月25日、慶喜は禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮に任ぜられた。慶喜は京に留まり、京都守護職の会津藩および京都所司代桑名藩を従え、また八月十八日政変以後の朝廷首脳である関白二条斉敬中川宮朝彦親王とも提携し、公議政体によらない新たな公武合体体制を構築した(一会桑体制)。以後数年の間、この体制が京都政局を主導していくこととなる。
公議政体論の展開から大政奉還へ「大政奉還図」 邨田丹陵 筆詳細は「大政奉還」を参照

文久2年の時点で、当時外国奉行であった幕臣の大久保一翁(忠寛)は、「攘夷は得策ではなく、朝廷が開国を認めず攘夷実行を迫るならば、徳川家は政権を返上して諸侯の列に下るべきである」という大政奉還論を松平春嶽に述べている。参預会議が徳川将軍の権威を上に戴く体制だったのに対し、一翁の論は徳川家を諸侯と同列に置く形の公議政体論であった。これに春嶽やその政治顧問の横井小楠、幕臣の勝海舟(義邦)、海舟門下の土佐脱藩浪士坂本龍馬などは感服しているが、幕府要人一般からは不興を買うものであった。

王政復古政変の直接の原因となったのは慶応3年(1867年5月四侯会議の設置とその崩壊である。雄藩側は公議政体への国政の移管を目指したが、将軍・慶喜の政治力の前に失敗し、大久保利通・小松清廉・西郷隆盛ら薩摩藩首脳は従来の公議政体路線から武力倒幕へ方針を転換した。ただし、この段階でも薩摩藩全体が武力倒幕で一致していたわけではなく、大久保らは国許の出兵反対論を抑えるため、岩倉具視を通じて討幕の密勅の降下を求めた。

しかし将軍慶喜は、ここにおいて土佐藩の建白を容れ、10月14日に大政奉還を上奏し(翌15日に勅許)、260年以上にわたって幕府(徳川将軍家)が保持していた政権を朝廷に返上する旨を表明した。慶喜は幕府体制の行き詰まりを自覚し、天皇の下に一元化される新体制において自らが主導的役割を果たす道を見出そうとしたといわれる。
諸侯会議の召集

朝廷は諸侯会議を召集して合議により新体制を定めることとし、徳川慶勝(尾張藩)、松平春嶽(越前藩)、島津久光(薩摩藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)、浅野茂勲芸州藩)、鍋島直正肥前藩)、池田茂政(慶喜の実弟、備前藩)ら諸藩に上洛を命じた。新体制発足までは幕府に引き続き国内統治を委任することとし、幕府はなおその間存続した。

倒幕派の岩倉具視や薩摩藩は、大政奉還によっていったん討幕の名分を失わせられた上、朝廷が従来の機構や門流支配を温存し親徳川派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王(中川宮、維新後久邇宮)に主催されたままでは自分たちの意向も反映されず、来たるべき諸侯会議も慶喜を支持する勢力が大きければ、結局新体制は慶喜を中心とするものになってしまうという懸念があった。これを阻止するため、明治天皇や自派の皇族・公家を擁して二条摂政・朝彦親王らの朝廷首脳を排除し、機構・秩序の一新された(慶喜抜きの)新体制を樹立する政変計画を練った。薩摩・長州・芸州3藩は藩論をまとめ、政変のための出兵同盟を締結する。

諸大名は諸侯会議の召命を受けても形勢傍観の構えを取る者が多く、11月中に上洛した雄藩は薩摩・芸州・尾張・越前のみで、12月8日に至ってようやく土佐の山内容堂が入京した。
経過
政変の勃発中心的な役割を果たした岩倉具視

前述の四侯会議における主要な政治的争点は、幕府(文久遣欧使節)が結んだロンドン覚書に基づく兵庫開港問題であった。この国際合意上の開港期日はグレゴリオ暦1868年元日(慶応3年12月7日)である。慶応3年10月の大政奉還により雄藩側の政治的正統性が失われた状態で、兵庫開港が予定通り実行されることは、慶喜の政治的復権を内外に強く印象付けることになる。雄藩側としては、政変を起こすのであれば、少なくとも1868年1月1日(慶応3年12月7日)から遠く遅れない時期に起こさなければ、時期を逸することになる。そこで、具体的な政変の実行について、大久保らは当初、開港翌日の慶応3年12月8日(1868年1月2日)を予定していた。しかし土佐の後藤象二郎から2日延期を要請され、やむなく1日延期して翌慶応3年12月9日(1868年1月3日)に決行することとした。その前夜、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言し、協力を求めた。こうして、5藩の軍事力を背景とした政変が実行に移されることとなるが、政変参加者の間において、新政府からの徳川家の排除が固まっていた訳ではない。越前藩・尾張藩ら公議政体派は徳川家をあくまで諸侯の列に下すことを目標として政変に参加しており、実際に親藩である両藩の周旋により年末には慶喜の議定就任が取り沙汰されるに至っている。

また、大久保らは政変にあたって、大政奉還自体に反発していた会津藩らとの武力衝突は不可避と見ていたが、二条城の徳川勢力は報復行動に出ないと予測しており、実際に慶喜は政変3日前の慶応3年12月6日(1867年12月31日)に越前側から政変計画を知らされていたものの、これを阻止する行動には出なかった[6]。兵力の行使は新政府を樹立させる政変に際し、付随して起こることが予想された不測の事態に対処するためのものであり、徳川家を滅ぼすためのものではなかった[7]

慶応3年12月8日(1868年1月2日)夕方から翌朝にかけて摂政二条斉敬が主催した朝議では、長州藩主・毛利敬親広封父子の官位復旧と入京の許可、岩倉ら勅勘堂上公卿の蟄居赦免と還俗九州にある三条実美ら五卿の赦免などが決められた。これが旧体制における最後の朝議となった。

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が御所の九門を封鎖した。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止された。そうした中、赦免されたばかりの岩倉らは、天皇出御のうえ御所の御学問所に参内して「王政復古の大号令」を発し、新政府の樹立を決定、新たに置かれる三職の人事を定めた[1]「王政復古の大号令」が発せられた京都御所の御学問所が現存している[1]
王政復古の大号令

徳川内府大政返上将軍辞職ノ請ヲ允シ摂関幕府ヲ廃シ仮ニ総裁議定参与ノ三職ヲ置ク(宮堂上ニ諭告)

日本の法令
通称・略称王政復古の大号令
法令番号慶応3年12月9日
種類憲法
効力失効
公布1868年1月3日
主な内容将軍職辞職を勅許。京都守護職、京都所司代、幕府、摂政、関白の廃止。総裁、議定、参与の設置。
条文リンク法令全書慶応3年【第13】
ウィキソース原文
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「王政復古の大号令」の内容は以下のとおりである。
(慶応3年10月24日に徳川慶喜が申し出た)将軍職辞職を勅許。

京都守護職・京都所司代の廃止。

幕府の廃止。

摂政・関白の廃止。

新たに総裁・議定・参与の三職をおく。
コ川?府[注釈 2]、從前󠄁御委任大政返󠄁上、將軍職辭退󠄁之兩條、今般斷然被 聞食󠄁候。抑、癸丑 [注釈 3]以來、未曾有之國難󠄀 先帝?頻󠄀年被惱 宸襟候御次󠄁第、衆󠄁庶之知所󠄁候。依之被決 叡慮、 王政復古、國威挽囘ノ御基被爲立候󠄁、自今、攝關幕府等[注釈 4]廢?、?今先假總裁議定參與之三職被置萬機可被爲行、諸󠄀事 神󠄀武創業之始ニ原キ、縉紳武弁堂上地下之無別、至當之公󠄁議竭シ、天下ト休戚ヲ同ク可被遊󠄁 叡慮ニ付、各勉󠄀勵、舊來驕惰之汚習󠄁ヲ洗ヒ、盡忠報國之誠󠄁ヲ以テ可?奉 公󠄁候事。
?覽 敕問御人數國事御用掛議奏武家傳奏守護職所󠄁司代總テ被廢候事。
一 三職人躰
  總裁
   有栖川帥宮
(中略)
一 太政官始追々可被爲興候󠄁其旨可心得居候事。
一 朝󠄁廷󠄁禮式追󠄁々御改正可被爲在候得共先.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}攝?門流(せつろくもんりゅう)[注釈 5]之儀被止候事。


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