王政復古
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ルイ15世スペイン・ブルボン朝)                  

                      

ルイ                     

                       
        
ルイ16世ルイ18世シャルル10世               

                      

ルイ17世      (オルレアン朝
ルイ・フィリップ             

1792年8月10日フランス革命政府は国王ルイ16世を逮捕し王権を停止。翌1793年国民公会がルイ16世の処刑を議決しギロチンで処刑した。以降フランスは共和政となった。

軍人であったナポレオン・ボナパルトは、革命後の混乱と武功を背景に、ブリュメール18日のクーデターによって統領政府の第一統領として実権を掌握。1804年5月の元老院決議、同年11月の国民投票を得て「フランス人民の皇帝」としてボナパルト朝を開闢した(フランス第一帝政)。1812年ロシア戦役での大敗により転機が生じ、第六次対仏大同盟の前に大敗を喫し、1814年3月パリ陥落に至る。ナポレオン1世はフォンテーヌブロー条約によって退位し、エルバ島へ追放された。

諸外国の利害の不一致や内外の混乱を前に、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール元外相の画策により、ルイ16世の弟ルイ18世が1814年憲章を公布してブルボン朝を復興した。翌1815年、ナポレオン1世はエルバ島を脱出し、3月にパリに入城して復位する。ルイ18世は再び国外へ亡命するが、ナポレオン1世がワーテルローの戦いで敗北して失脚(百日天下)すると、帰国した。1824年にルイ18世は崩御し、王弟シャルル10世が即位した。しかし反動政治によって、1830年七月革命によって廃され、ルイ・フィリップが即位してオルレアン朝が成立したが、1848年二月革命によって王政は廃止された。

ナポレオン1世の甥であるルイ・ナポレオンは、二月革命による王制廃止後に帰国し、同年12月に知名度、資金力、両王党派(正統王朝派オルレアン派)の支持により大統領に当選する。1852年1月1852年憲法を制定して独裁体制を樹立し、同年12月に国民投票を経て皇帝即位を宣言した(第二帝政)。外交的成功により支持を受けたが、メキシコ出兵の失敗を経て、1871年普仏戦争で完敗を喫し、退位を余儀なくされた。

ナポレオン3世退位後の選挙でパリ以外の選挙区で王党派が勝利、王党派のパトリス・ド・マクマオンが大統領に就き、両王党派もジャンポール伯アンリ・ダルトワ(シャルル10世の孫。アンリ5世と称す)を擁立することで話が着き、事実上王政復古が完了した状態にまでこぎ着けた。しかし、当のジャンポール伯が即位の条件として要求されたフランスの三色旗の受け入れを頑なに拒否した結果、千載一遇のチャンスを逃し水泡と化した。ジャンポール伯の頑迷さに失望したレジティミストと、利害の一致で手を組んだだけのオルレアニストはジャンポール伯の死後にパリ伯フィリップルイ・フィリップの孫。フィリップ7世と称す)の擁立を考えるも、1883年にジャンポール伯が亡くなった時、既に共和制容認論が世論に広がっており、選挙で共和派に敗北し王政復古の望みは潰えた。

以後、フランスには共和政が定着し、今日に至る。
スペイン詳細は「スペイン王政復古」および「スペインの民主化(英語版)」を参照

1873年2月に王制が廃止されて共和政(第一共和政)が短期間敷かれていたが、1874年12月に最初の王政復古が行なわれて共和制が廃止された。

1931年の自治体選挙(スペイン語版)で共和主義派が勝利したのを受けてボルボン朝アルフォンソ13世が退位、第二共和政が成立した。

しかし政情は安定せず、スペイン内戦の後にフランシスコ・フランコの独裁体制(フランコ政権)が1939年に固まった。フランコ自身は王政復古を望んでいたが、王位継承権者であるバルセロナ伯フアンがフランコ体制を支持せず、フランコ自身が首相摂政を兼ねる総統に就任して全権を掌握する独裁体制が続いた。その後、1967年にバルセロナ伯の息子フアン・カルロスが国王候補に指名され、1975年にフランコが死去するとボルボン朝による二度目の王政復古が行なわれた。
ポルトガル詳細は「ポルトガル王政復古戦争」を参照

1580年ポルトガル王国エンリケ1世を最後にアヴィス王朝の男系が断絶し、姻戚関係にあったフェリペ2世(母がポルトガル王女イサベル、妃が同マリア・マヌエラ)が首都リスボンを陥落させ、スペイン王国との同君連合を成立させた。

1640年のポルトガル貴族の叛乱を皮切りに、アヴィス王朝の支流であるブラガンサ家(アヴィス朝初代国王ジョアン1世の庶子アフォンソが祖)のジョアン4世が推戴され、1660年のイングランド王政復古の影響も受けつつ、1668年のリスボン条約(英語版)によりスペインからの独立(ブラガンサ家の正統性の承認、植民地の回復)を果たした。

一連の戦争は『喝采戦争』と呼ばれていたが、19世紀に『王政復古戦争』の名が付いた。
ギリシャ詳細は「八月四日体制」および「ギリシャ王国」を参照

ギリシャ王国では1923年に総選挙で共和派が勝利した。翌1924年12月の国民投票で共和制への移行が決定し、国王ゲオルギオス2世亡命した。


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