王政ローマ
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トロイア戦争で敗走したトロイアアイネイアースらは、ギリシアの島々やカルタゴを転々とした後、イタリア半島ラティウムに上陸した。そしてアイネイアースは現地の王の娘を妻として与えられ、ラウィニウムを築く。アイネイアースの死後は息子のアスカニオスが王位を継いだが、三十年の治世の後ラウィニウムを去り、アルバ・ロンガと名付けた新しい街を建設した。

時代が下り、王の息子アムリウスは兄ヌミトルから王位を簒奪する。ヌミトルの男子は殺され、娘レア・シルウィアは処女が義務付けられたウェスタの巫女とされる。ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マールスが降りてきて彼女と交わった。シルウィアは双子を産み落とすが、怒った叔父の王は双子を川に流した。双子はに、その後羊飼いに育てられ、ロームルスレムスと名づけられた。成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して大叔父を討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力する。兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとする。しかし兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺される。この丘、パラティヌスに築かれた都市がローマであった。こののちローマは領域を拡大させ、七つの丘を都市の領域とした。
王の治世
ロームルスサビニの女たちの掠奪ニコラ・プッサン作)

ローマ建国伝説によると、紀元前753年4月21日ロームルスが王になり、ティベリス川(テヴェレ川)の畔に都市ローマを建設した。人口数千人。当時のローマは丘2つを巡る防塞を設けただけの小村だった。この最初のローマはラテン人の国だった。

やがて、近隣の部族と争いが起きた。ローマが隣のサビニ人の丘の村娘たちを祭りに招待したとき、娘たちを急に抱きかかえて自宅まで逃げてそのまま帰さなかったためだ。当然、戦となった。しかし娘たちは隣の丘の男たちに、自分たちは妻としての扱いを受けており、決して虐げられていなかった為、争いをやめて欲しいと懇願した。サビニ人のタティウス王は和平を承諾し、さらにはロームルスのすすめで部族をあげてローマに移住する。ローマがサビニ人を併合したわけではなく、サビニ人の自由民にはローマ人同様の市民権が与えられ、タティウス王はロームルスと共同して統治にあたった。

タティウス王はこののちすぐに戦死し、その後のローマの指揮はロームルスがとった。

紀元前715年のある日、ロームルス王が閲兵中、突然、目の前も見えないほどの雷雨が襲ってきた。雨と雷が去ったのち、兵たちが玉座を見ると、王の姿はどこにもなかった。八方探しても見つからず、このとき王は死んだとされた。
ヌマ・ポンピリウス

次の王が選ばれることになったが、ロームルスを誰かが暗殺したという噂が飛び交い、誰が王に当選しても疑惑を生みそうな状況となった。王には息子がいたが、彼を王にするという考えはローマ市民にはなかった。そこで市民たちは、何の利害関係もない市外の人物から王を選ぶことにした。市民が選んだのは賢者として知られるサビニ人のヌマ・ポンピリウスだった。ローマに住んでさえもいなかったヌマは当然、固辞したが、元老院の長老たちから何度も頼まれるとそれ以上は断れなかった。

ヌマは温和な人格者だったとされ、この王の時代にはローマに戦争は起こらなかった。ヌマは主に国内の改革を行った。ロームルスが定めたとされるローマ暦を改めたのもヌマである。農業を推奨し、その他、職業別の組合を作った。宗教改革を行い、神官も決めた。ローマ神話の骨格と、主な神の名が決まったのはヌマの時代である。これはヌマの祖先サビニ人の信仰が基になったといわれる。ヌマの死も、その治世と同じようにおだやかなものだった。

また、ヌマの治世に天から12枚のアンキーレー(聖盾)が降臨し、ローマの守護の象徴にされたという伝説がある。これは恐らく、南下してくるエトルリア人の脅威にローマ人が軍備を備えたことを神話にしたものだといわれている。
トゥッルス・ホスティリウスホラテウス兄弟の誓い(ジャック=ルイ・ダヴィッド作)

第3代の王になったトゥッルス・ホスティリウスは、ヌマの治世で地力を蓄えたローマで拡大方針を採用した。

近隣では最大のラテン人都市アルバ・ロンガを征服し、王を殺して町を完全に破壊した。しかし、アルバ市民はローマ市民として迎えられ、アルバの貴族はローマの貴族として元老院の議席も与えられた(この時移住してきた貴族の中に、後にガイウス・ユリウス・カエサルなどを輩出したユリウス一門が含まれていたとされる)。

王の死は雷に打たれてのものだったと伝えられる。
アンクス・マルキウス

第4代の王アンクス・マルキウスは2代の王ヌマの孫であり、平和な治世を期待されて選ばれたのだが、祖父とは異なり多くの戦を行った。しかし内政にも能力を発揮し、初めてローマに水道を引く。また海辺のオスティアを征服して、ローマに塩をもたらした。
タルクィニウス・プリスクス

第5代の王タルクィニウス・プリスクス(古風王)は、エトルリア人だった。ローマでは異邦人でも市民権が与えられると聞き、移り住んだのだった。そして市民権を得、先王の死後立候補して王になった。市外の出であることは、ヌマ王の先例もあり、問題視されなかった。

この王は戦争に勝利しても、土地の住民をローマに移住させなかった。代わりに戦利品をローマまで運んだ。どうせ負けてもローマ市民になるだけだと思っていた近隣都市国家はしばらく静かになった。平和なときは兵士を使って水道を建設した。ローマにはその技術がなかったので、王の故郷エトルリアから技術導入した。これにより産業が活性化した。ローマ人は技術もよく学び、市はさらに発展した。

しかし、王は、王位を狙う先王の息子によって暗殺された。
セルウィウス・トゥッリウス

第6代の王には第4代の王の息子は選ばれず、孤児であり先王の養子で婿でもあったエトルリア人のセルウィウス・トゥッリウスが選ばれた。


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