王太子
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外務省では、「王国」「公国」や「性別」を区別せず、一律「皇太子殿下」の呼称で使用する[注釈 5][注釈 1]

これに対し、歴史上の人物については、慣例に従って「王太子」の語も用いられる。尤も、次期皇(王)位継承者が弟や孫であるなら、「皇(王)太弟」「皇(王)太孫」の語も存在するが、その地位を問わずもっぱら「皇太子」の名称が用いる。なお、西欧の言語においては、そもそも「皇帝か国王か」「子か孫か弟か」に応じた称号の使い分けは見られず、英語を例にすれば「: Crown Prince」の語が用いられる。その代わり、性別によって称号が異なることが多く、女性の次期君主位継承者の称号は、英語を例にすれば「: Crown Princess」の語が用いられるが、「Crown Princeの配偶者(妃)」にも同じ称号が用いられるので注意が必要である。

こうした西洋の言語と漢語・日本語の用法の違い等は、プリンスを参照。また、皇太子に相当する儀礼称号については後述(→#ヨーロッパ大陸諸国の王太子・皇太子
日本における女性への用例、その評価

日本では、女性に対して用いられたのは阿部内親王(=即位前の孝謙天皇[注釈 6])が唯一の例となっている。

立太子以降即位まで、『続日本紀』(延暦16年(797年)成立)は一貫して阿部内親王を「皇太子」と記している[13]
孝謙・称徳天皇(阿部内親王)

天平元年(729年)、聖武天皇安宿媛立后し、その理由のひとつに「皇太子の母」であったことを挙げた。実際には基王は既に夭折しており、29歳の光明皇后は再び男子を出産する重責を負い、12歳の阿部内親王にも中継ぎとしての即位と不婚が想定された[14]。しかし、男子が誕生せぬまま皇后が30代後半を迎え、天平10年(738年1月13日、21歳の阿部内親王は立太子された。後述の通り、阿部内親王が立太子された時期は、皇太子の概念が確立された最初期にあたる。しかし先述(→#日本における語義の成立)の通り、従来「天皇の長男」を意味する「皇太子」位に、前例に反して皇女が就いたことは異例であり、皇太子として容認しない勢力もあった[3][15]

天平15年(743年)5月、宮中で皇太子阿部内親王は群臣を前に五節舞を舞った[16]。文武天皇の子孫と新田部皇子の子孫の融和の象徴である天武天皇[17]が創始した五節舞を皇太子が習得して披露したことは、「君臣、祖子の道理」を説くものとされ、阿部内親王の皇位継承の正統性をアピールし権威付けする催しであった[18][19]。言い換えれば、史上初[注釈 7]の女性皇太子の地位は盤石ではなかった[20]。こうした中で「女性皇太子」を肯定するため、光明皇后(及び実家である藤原氏)の政治力が拡大した結果、前例や慣習と政治力との均衡が崩れ[21]、次のような社会的混乱を招いた。

天平12年(740年)9月に発生した藤原広嗣の乱は、挙兵理由のひとつとして前例に反した阿部内親王の立太子があると指摘する見解がある[22]

天平17年(745年)8月、難波行幸中の聖武天皇が重篤となると橘奈良麻呂はクーデターを画策し、佐伯全成を勧誘した際「猶無立皇嗣(なお皇嗣立たざる無し)」と発言している[23]。この「皇嗣」は、「皇太子阿部内親王」を否定するとする解釈[24]、「阿部内親王の次代の後継者」が不在であるとする解釈がある[25]。阿部内親王の即位後、天平勝宝9歳(757年)に奈良麻呂は叛乱を起こし、敗死した(橘奈良麻呂の乱)。

以降の女性天皇

また、孝謙天皇以後の女性天皇の例として、寛永6年(1629年)11月8日の興子内親王の践祚明正天皇)や、宝暦12年(1762年7月27日の智子内親王の践祚(後桜町天皇)の二例があるが、いずれも立太子を経ていない。したがって、孝謙天皇以降、現代に至るまで女性が「皇太子」等の称号を得たことは無い。
評価

孝謙天皇の例を踏まえて、2005年(平成17年)の小泉純一郎政権下での「皇室典範に関する有識者会議」報告書においては「天皇、皇太子、皇太孫という名称は、特に男子を意味するものではなく、歴史的にも、女子が、天皇や皇太子となった事実が認められる」とされ、「女子の場合も同一の名称を用いることが適当である」と結論付けられた[26]。なお、同報告書は、安倍晋三政権下の2007年(平成19年)に白紙撤回されている[注釈 8]

一方、孝謙天皇(阿部内親王)の立太子に前後に生起した政情不安定の遠因は、前例があり律令で認められた「女性天皇(女帝)」ではなく、前例に反した「女性皇太子」の強引な出現による政治均衡の崩壊にあると考えられている[27]。奈良朝政治史研究者の大友裕二は、この歴史的事実を踏まえ、現代皇室についても「(引用註:前例の)範囲を超えないように改善していく必要があるのではなかろうか」としている[27]
法的推定相続人詳細は「王位継承#最先順位の継承権者と称号」および「推定相続人」を参照

推定相続人(すいていそうぞくにん)は、君主位や爵位の継承において、「現在は継承権第1位であるが、将来自分より上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がある人物」をいう。典型的な例として、長子相続制における子のいない君主の弟・妹や、男子優先長子相続制における息子がいない君主の長女がある。

法定推定相続人(ほうていすいていそうぞくにん)は、「君主位や爵位の継承において、将来自分より上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がない継承権第一位の人物」をいう。典型的な例として、長男相続制および男子優先長子相続制における長男や、長子相続制における第一子がある。継承権第一位が確定しているという点では皇太子(王太子)と共通するが、「法定推定相続人」という単語は称号ではなくあくまで系図学的な用語であるため、本人への呼びかけなどとしては用いられない。
日本の皇太子
現在の定義
皇室典範第8条
皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。
現在の皇太子

2019年令和元年)5月1日に第126代天皇として即位した今上天皇(徳仁)には、皇子(皇男子)がいない。また皇嗣たる秋篠宮文仁親王も今上天皇の弟、すなわち皇弟であり、「皇嗣たる“皇子”」ではない。

そのため、秩父宮雍仁親王以来[注釈 9]86年ぶりに、また現行の皇室典範下では初めて、皇太子は空位になった[28]
概要

日本
皇太子
皇太子旗
在位中の皇太子
空位
2019年(令和元年)5月1日より
詳細
宮殿東宮御所
東京都港区元赤坂赤坂御用地
ウェブサイト宮内庁
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称号:皇太子


敬称殿下
His Imperial Highness the Crown Prince
黄丹袍を着用した皇太子徳仁親王(当時)
1990年(平成2年)11月12日、即位礼正殿の儀にて

1889年(明治22年)、皇室の家内法として旧皇室典範が定められ、皇位継承順序が明文化された。この旧皇室典範15条では、「儲嗣タル皇子」を「皇太子」としていた。

1947年昭和22年)に法律として定められた現行の皇室典範第8条前段では、「皇嗣たる皇子」が「皇太子」とされている。「儲嗣(ちょし)」もしくは「皇嗣(こうし)」は、いずれも皇位継承順第一位の者を指し、「皇子」とはこの場合、当代天皇の子で男子を指す。皇位継承順序の変更は、「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキ」(旧典範9条)、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」(現典範3条)のみに皇室会議の議(旧典範下では皇族会議の議および枢密顧問への諮詢)により許されている。


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