なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな
古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされる難波津の歌は百人一首には含まれてはいないが、全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、大会の時に一首目に読まれる歌である。歌人の佐佐木信綱が序歌に選定したとされる。なお大会の歌は「今を春べと」に変えて歌われる[50]。 能「難波(古名:難波梅)」では、王仁は「おうにん」と読まれている[51]。 シテ「咲くやこの花と詠じつゝ。位をすゝめ申せし。百濟國(はくさいこく)の王仁(わうにん)なれや。……」[52] 昭和46年近畿民俗会の調査では官軍に追われて亡くなった地という地元の村の伝承が記録されている。<ワニ塚>……村の伝えではワニという人は官軍に追われて長尾の大池の上にあるセメ谷で攻められここに逃げて来て死んだので、ここに墓があるという。<馬塚>藤阪の北にある。博士王仁の乗馬を埋めた所というが、今は畑となっている。 ? 近畿民俗会、枚方の民俗[53]。 大阪府枚方市旧藤坂村の字御墓谷の山中に自然石の碑があり、里人が王仁を訛って「おにの塚」と呼んで畏敬し、歯痛や瘧の治癒を祈願していたという[54]。 1940年菅原村・津田村・氷室村が合併してできた津田町は1955年枚方市へ編入するが、以前枚方市で勤務していた歴史学者の馬部隆弘は、1934年伝王仁墓を菅原村が大阪府へ史跡として申請する際に写筆を提出した『王仁墳廟来朝紀』を椿井文書だと指摘し批判[55]、SNS上で椿井政隆(1770?1837)が生誕する以前に『当郷旧跡名勝誌』(1682)や『八幡宮本紀』(1689)にて王仁墓の伝承が記載されているとの批判を受けそれらは伝承ではなく学説であるとブログ上で反論[56]、歴史学者の飯沼雅行
能・狂言における王仁
遺跡と顕彰運動
大阪枚方大阪府枚方市の伝王仁墓入口石碑
歴史家金英達
(英語: Yondaru Kimu)の伝王仁墓への批判が神戸学生青年センターで講座を開くむくげの会の会報『むくげ通信』で公開されている[64]。……並河誠所(並川五一郎、並河五市郎)が『五畿内志』編纂のために名所旧跡を探訪中、禁野の和田寺で「王仁墳廟来朝紀」という古記録を見つけ(現存しておらず、写本と称するものが伝えられている)、この地を踏査して藤坂村の自然石(オニ塚)に出会い、さしたる根拠もなくこれを王仁の墓であると断定して、地元の領主(久貝因幡守正順)に進言して「博士王仁之墓」と刻んだ墓石を建立させた。…… これは、一学者の願望・思いつき・功名心による歴史の捏造であり、幕府の権威を嵩にかけた強引な碑の建立であった。…… 昭和にはいると天皇制国家主義者らの団体による王仁の顕彰運動が起こり、戦時期には「内鮮一体」を標榜する朝鮮人公民化政策に利用される。……戦後になると“善意な”日本人の協力者が登場、歴史の検証なしに韓国人の民族意識をくすぐる“韓日友好親善運動”に利用される。 ? 金英達(英語: Yondaru Kimu)(2000年)、[64]
王仁墳廟来朝紀
夫百濟國博士王仁者漢高帝之後裔有?曰?鸞ト?者、鸞カ之後王狗轉 至?百濟ニ?、當テ?百濟久素王ノ時ニ?我 朝人皇第十六代譽田天皇(應神帝)馭宇十六年乙巳春二月遣?使召ス?文人ヲ?、久素王即チ王狗之孫王仁ヲ来貢焉、則来朝以テ?難波津(仁)咲屋此花冬篭之哥詠ヲ?奉ル?祝?我朝御代萬歳ヲ?、應神天皇 叡感以テ?百濟王仁學士ヲ?則二皇子莵道稚郎子及大鷦鷯王(人皇第十七代仁徳天皇)之爲ス?師ト習フ?諸典籍ヲ?、是本朝之儒風之始祖也、儒學於テ?是(仁)興ル、則我朝學校之権輿也、爲シテ?封戸ト?以テ?大倭國十市縣ヲ?百濟王ノ博士王仁ニ賜フ?食禄ヲ?、今大和國十市郡百濟郷是也、王仁及テ?没ニ河内文ノ首ノ始祖博士百濟墓(與)紀書葬ル?河内國交野縣藤坂村ニ造テ?墓ヲ?、則藤坂村艮(東北)稱ス?字御墓谷ト?、土俗於爾(オニ)之墓ト誤訛ス
一 百濟王仁社
於テ?和泉国大鳥郡ニ?王仁ヲ東原大明神ト尊称ス(在向井之北)、祭神百済王仁相殿素戔烏尊ニ坐也
右以本巻紀書之後世備不朽置所蓋如斯者也
交野郡五箇郷住侍百済裔孫
西村大学助俊秋次子
禁野和田寺住侶
道俊(花押)
元和二辰年正月 ? 道俊、[55][68][69][70]
当郷旧跡名勝誌に記録された塔石
1682年(天和2年)、古記録や御伽噺が集められた大阪府枚方市旧津田村尊光寺所蔵『当郷旧跡名勝誌』にて、百済王氏の御墓と古老が伝承する字御墓谷の御墓山での王仁の埋葬並びに著者がのちの時代(後代)に立てられたと推定した村にある当時既に古くなっていた王仁の塔石が記されている。この伝承について筆者である教岸は欽明天皇13年(552年)の仏教公伝以前に来朝した王仁による上の堂の建立並びに「みささき」ではなく「御墓」である点を理由に訝しんでいた。御墓谷に類似する小字は河内国交野郡の他の村々にもみられる(例:現交野市森「墓谷」[71]、現枚方市の墓の谷)[72]。
天和二年壬戌記
当郷旧跡名所誌……(※可読性のためカタカナを平仮名に変換)
御墓山之山
一 札場より十余丁計寅の方に御墓谷と云字あり。古老の伝説には中宮村住居之百済王の御墓と云へり。-(中略)-四十年以前迄は御墓一段高くありけるが、大雨などにくえくづれて、長さ五尺許の焼物の櫃顕れ見へしが、其の内に灰の如くなる者あり。太刀、刀の様成る物ありけれども、朽くさりて手にも取られずとなり。切羽(せっぱ―刀身の本につける金具)帚(はゞき?刀の鍔元をかためる金具)笄(こうがい?刀のさやにはさむ金具)の様なるものは、金にてありければ不?立たと也。見し人の語り也。其辺に土器、天目、花たてのやうなるもの多く在りけりとなん。……
上の堂の事
一 札場より二丁ばかり寅の方に上の堂の古跡あり。往昔には七堂伽藍作りにて、十三重の石塔二た組ありとなん。本堂は九間四面に転輪聖王の形一丈六尺の土像ありけりとなん。百年以前までありしを見しと老人の云ひ伝へ也。同郡の内中宮村に百済国王と申すが御座して、其所より此所へ一里の間廊下相続きたりとなん。然れども何れの時代とも正説難し?知り。九十余年以前に太閤当国小山城(南河内郡)御取立ての時に、奉行小野木六助と云人、此堂をこぼち用木としまひしより、一宇もなく、くさむらしげり荒果てけり。されども人畜ともに悪敷すればたヽり有り。かヽる霊地の無下に失せ果んことなげかわしとて、御地頭地下人頭梁し、寛文九乙酉歴に郡中令し?奉加?、小庵を結び、釈迦の木仏安置しける也。