王仁
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また、志田諄一は王仁を辰孫王と同一視する見解もある[20][21][22][23][24][25][26][27][28][29]
記録

王仁に関しての記述が存在する史書は『古事記』『日本書紀』『続日本紀』などである。それぞれの記述は以下のようになっている。
日本書紀

王仁に関するもっとも詳細な記述は『日本書紀』のものであり、百済人の使者阿直岐(あちき)を介して来朝したという。『日本書紀』記事ついて笠原一男は、「まず儒教についてだが『日本書紀』には応神天皇(五世紀前半?)の時代に百済から伝わったと記してある。しかし、漢字はすでに奴国王金印でも知られ、五世紀には刀剣銘文にも用いられているのだから、この記述は王仁を始祖とする西文氏の起源伝承とみるべきだろう。儒教伝来については注目したいことがいろいろある。一つはそれが百済から伝えられたことだ。六世紀の日本は中国との直接交渉がなく、百済を通じて中国南朝の文化を導入したのである」と指摘している[30]。十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣?阿直伎?、貢?良馬二匹?。?養?於輕坂上厩?。因以?阿直岐?令?掌飼?。故號?其養?馬之處?、曰?厩坂?也。阿直岐亦能讀?經典?。?太子菟道稚郎子師焉。於是、天皇問?阿直岐?曰、如勝?汝博士亦有耶。對曰、有?王仁者?。是秀也。時遣?上毛野君祖、荒田別・巫別於百濟?、仍??王仁?也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。
十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習?諸典籍於王仁。莫?不?通達?。所謂王仁者、是書首等之始祖也。 ? 『日本書紀』、巻第十、応神紀[31]十五年の秋八月六日に、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}百済王(くだらおう)は、阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。そのまま軽(かる)の坂上(さかのうえ)の厩(うまや)で飼わせた。それを阿直岐(あちき)に管理させて飼わせた。そこで、馬を飼っていたところを名づけて厩坂(うまやさか)という。阿直岐(あちき)はまた経典に精通していた。それで、皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は学問の師とされた。天皇は、阿直岐(あちき)に尋ねて「あるいはお前に勝る博士が、他にいるか」とおっしゃると、(阿直岐は)答えて「王仁(わに)という者がおります。この人は優れた人です」と申し上げた。そこで上毛野君(かみつけのきみ)の祖の荒田別(あらたわけ)と巫別(かんなきわけ)を百済に遣わして、王仁(わに)を呼び寄せなさった。その阿直岐(あちき)は、阿直岐史(あちきのふひと)の始祖である。
十六年の春二月に、王仁(わに)が来て、すぐに太子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が師とされ、多くの典籍を王仁(わに)に習われたが、何事にも通暁し不明とすることはなかった。いわゆる王仁(わに)は書首(ふみのおびと)らの始祖である。 ? 『日本書紀』、巻第十、応神紀[32]
古事記百濟國主(クダラノコニキシ)照古王以?牡馬壹疋(ヲマヒトツ)、牝馬壹疋(メマヒトツ)ヲ ? 、付テ?阿知吉師ニ? 以貢上(タテマツリキ)、此阿知吉師者、阿直史等之祖、亦貢?上(タテマツリキ) 横刀(タチ) 及(ト)大鏡(オホカヾミトヲ)、? 又科? 賜百濟國(クダラノクニニ)、? 若有? 賢人? 者(モシサカシビトアラバ)貢上(タテマツレトオオセタマフ)、 故受?命(カレミコトヲウケテ) 以貢上人(タテマツレルヒト) 、名ハ 和邇吉師、?チ論語十卷、千字文一卷、?セテ十一卷ヲ、付テ?是人ニ? ?貢進(タテマツリキ)、此和邇吉師者、文首等祖 ? 『古事記』、中巻、応神天皇二十年己酉[33]また、百済国王の照古王(しょうこおう)が、牡馬一頭、牝馬一頭を阿知吉師(あちきし)に託して献上した[この阿知吉師は阿直史らの祖先である]。さらに(照古王)は横刀と大鏡とを献上した。また(天皇は)また百済国にお命じになって、「もし賢者がいたならば、献上しなさい」と仰せになった。そこでその命を受けて(照古王が)献上した人は、名は和迩吉師(わにきし)で、論語十巻・千字文一巻と合わせて十一巻を和迩吉師に託して献上した〔この和迩吉師は文首(ふみのおびと)らの祖先である〕。 ? 『古事記』、中巻、応神天皇二十年己酉[34]

和邇吉師によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。『論語』は註解書を含めて10巻と考えればおかしくはないが、『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられることも少なくない[35]
古語拾遺

古語拾遺』では至テ ? 於輕嶋(カルシマ)ノ 應神天皇豐明(トヨアキラ)ノ朝ニ? 百濟ノ王貢ル ?博士王仁(ハカセワニ) ヲ是河内ノ文首始祖(フミノオヒトノオヤ) 也(中略)
至テ? 於後磐余(イハレノ)覆仲天皇稚櫻(ワカザクラ)ノ 朝ニ? 三ノ 韓貢獻(ミツギタテマツルコト) 奕世(ヨヽ)無(ズ) ?絶(タエ)齋藏之傍(カタヘ)ニ更建(タテヽ)内藏(クラ)ヲ? 分收(ヲサム)官物(ミヤケ)ヲ ?仍令メ?阿知ノ使主ト與? 百濟ノ 博士王仁?計サ?其出シ納ルヲ ?始更(サラニ)定?藏部(クラヒトベ) ? 古語拾遺、齋部宿禰廣成[36]応神天皇輕嶋(かるしま)の豊明(とよあきら)の朝(みかど)に至りて、百済(くだら)の王(こにきし)博士(はかせ)王仁(わに)を貢(たてまつ)る。是河内文首(かわちのふみのおびと)の始祖(はじめのおや)なり。秦公(はだのきみ)が祖(おや)弓月(ゆづき)、百二十県民(ももあまりはたちのこほり)を率て帰化(まゐおもぶ)けり。漢直(あやのあたひ)が祖(おや)阿知使主(あちのおみ)、十七県民(とをあまりななつのこほり)を率て来朝(まゐけ)り。秦(はだ)・漢(あや)・百済(くだら)の内附(まゐしたが)へる民、各々(おのもおのも)万(よろづ)を以つて、計(かぞ)ふ。褒賞(ほ)むべきに足る。皆其の祠(やしろ)は有れども、未だ幣例(ぬきたてまつるつら)に預(あづか)らず。

覆仲天皇 後(のち)の磐余(いはれ)の稚櫻(わかざくら)の朝(みかど)に至りて、三韓貢獻(みつのからくにみつきたてまつ)ること、奕世(よよ)絶ゆること無し。齋藏(いみくら)の傍(かたはら)に、更に内藏(うちのくら)を建てて、官物(みやけもの)をおけ収む。仍りて、阿知使主(あちのおみ)と百済主(くだら)の博士王仁(はかせわに)とをして其の出納(あげおろし)を記さしむ。始めて更に藏部(くらひとべ)を定む。 ? 西宮一民(にしみやかずたに)、古語拾遺[37]

とする。
続日本紀

続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが先祖の王仁は高帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。(原文)○戊戌、左大史正六位上文忌寸最弟・播磨少目正八位上武生連真象等言、文忌寸等、元有二二家一。東文称レ直、西文号レ首。相比行レ事、其来遠焉。今、東文挙レ家、既登二宿禰一、西文漏レ恩、猶沈二忌寸一。最弟等、幸逢二明時一、不レ蒙二曲察一、歴レ代之後、申レ理尤レ由。伏望、同賜二栄号一、永貽二孫謀一。有レ勅、責二其本系一。最弟等言、漢高帝之後曰レ鸞。々之後、王狗、転至二百済一。百済久素王時、聖朝遣レ使、徴二召文人一。久素王、即以二狗孫王仁一貢焉。是文・武生等之祖也。於レ是、最弟及真象等八人、賜二姓宿禰一。
(訓読)○戊戌(八日)、左大史(さだいし)正六位上文(ふみ)忌寸最弟(もおと)・播磨(はりまの)少目(せうさうくわん)正八位上武生(たけふ)連真象(まかた)ら言(まう)さく、「文(ふみ)忌寸ら、元(もと)二家有り。東文(やまとのふみ)は直と称(しよう)し、西文(かふちのふみ)は首と号(がう)す。相比(あひなら)びて事(わざ)を行(おこな)ふこと、その来(きた)れること遠(とほ)し。今(いま)、東文(やまとのふみ)は家(いへ)を挙(こぞ)りて既(すで)に宿禰に登(のぼ)り、西文(かふちのふみ)は恩(めぐみ)に漏(も)れて猶(なほ)忌寸に沈(しづ)めり。最弟(もおと)ら幸(さきはひ)に明時(めいじ)に逢(あ)ひて、曲(つばひらか)に察(み)ることを蒙(かがふ)らずは、代(よ)を歴(へ)て後(のち)、理(ことわり)を申(まう)すとも由尤(よしな)からむ。伏(ふ)して望(のぞ)まくは、同(おな)じく栄号(えいがう)を賜はりて永(なが)く孫謀(そんぼう)を貽(のこ)さむことを」とまうす。勅(みことのり)有りて、その本系(もとつすぢ)を責(せ)めしめたまふ。最弟(もおと)ら言(まう)さく、「漢(かん)の高帝(かうてい)の後(のち)を鸞(らん)と曰(い)ふ。鸞(らん)の後(のち)、王狗(わうく)、転(うつ)りて百済(くだら)に至(いた)れり。百済(くだら)の久素王(くそわう)の時(とき)、聖朝(せいでう)、使(つかひ)を遣(つかは)して、文人(ぶんじん)を徴(め)し召(まね)きたまへり。久素王(くそわう)、即(すなは)ち狗(く)が孫(うまご)王仁(わに)を貢(たてまつ)りき。是(これ)、文(ふみ)・武生(たけふ)らが祖(おや)なり」とまうす。是(ここ)に、最弟(もおと)と真象(まかた)ら八人に姓宿禰(すくね)を賜(たま)ふ。 ? 『続日本紀』、巻第四十、桓武天皇 延暦十年(791年)四月戊戌[38]

これに従えば、漢高帝の子孫「鸞」なる人物の子孫の「王狗」が百済に渡来し、その孫の王仁が渡来して文氏、武生氏らの祖先となったことになる。この伝承は後の『新撰姓氏録』の記述にもみえる。

王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡出身の中国人系の学者とされ、百済に渡来した中国人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。
新撰姓氏録

新撰姓氏録』には、「諸藩」の「漢」の区分に王仁の子孫の諸氏に関しての記述がある。文宿禰(左京)に「出漢高皇帝之後鸞王也」、文忌寸(左京)に「文宿禰同祖、宇爾古首之後也」、武生宿禰(左京)に「文宿禰同祖、王仁孫阿浪古首之後也」、櫻野首(左京)に「武生宿禰同祖、阿浪古首之後也」、栗栖首(右京)と古志連(河内国と和泉国)にはそれぞれ「文宿禰同祖、王仁之後也」とある。第三帙

左京諸蕃上 ……
漢。……
文宿禰。 出?自?漢高皇帝之後鸞王 ?也。
文忌寸。 文宿禰同祖。宇爾古首之後也。
武生宿禰。 同祖。王仁孫阿浪古首之後也。
櫻野首。 同?上。……
右京諸蕃下……
漢。……
栗栖首。 文宿禰同祖。王仁之後也。……
河内國諸蕃。……
漢。……
古志連。 文宿禰同祖、王仁之後也。……
和泉國諸蕃。……
漢。……
古志連。 文宿禰同祖、王仁之後也。 ? 新撰姓氏録[39][40][41][42]

祖先が漢の帝室に出自を持つ「鸞王」である点などが、『続日本紀』と対応している。また、孫の名として「阿浪古首」が記されている。
各説


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