王仁
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馬部は元枚方市市史編纂室担当職員[58]で元枚方市教育委員会社会教育部長[59]、元公益財団法人枚方市文化財研究調査会理事[60]の田宮久史から伝王仁墓などについて教示を受けたという[61]。大阪府枚方市の伝王仁墓は、並河誠所にその価値を見出され、彼の建言を容れた当地の領主久貝氏によって、石碑が建てられる。……椿井政隆も「王仁墳廟来朝紀」を著し、少なからず批判のあった並河誠所の説を補完しようとした。……三・一独立運動以後……内鮮融和と朝鮮人の皇民化が政策として進められるなかで、朝鮮と日本を結びつけた王仁の墓は、再び注目を浴びるようになる。……並河誠所による『五畿内志』の安易な一文と、それを補完しようとする「椿井文書」が相互に補完することで成立した極めて危うい説ではあるものの、真正な古文書として一度利用されてしまったがために、払拭することができないのである。 ? 馬部隆弘、[62]……原文は確認できませんが、「当郷旧跡名勝誌」が引用する寛文9年(1669)の奉加帳を確認しうる王仁墓の初見事例と判断しました。そしてそれは、「何レノ記録ヨリ考ヘタルラン」と指摘されているように、伝承としてではなく学説として登場します。……椿井文書が実際は新しいものだとしても、伝承内容は変わらないと言いたいようですが、素人さんはこの一覧表でも伝承と学説を混同しています。とはいえ、素人さんの指摘はある側面では当たっています。なぜなら、このなかで伝承といえるのは「オニ」の墓のみで、それ以外は学説なので、たしかに「伝承内容は変わらない」からです。 ? 馬部隆弘、[63]しかし教岸は、寛文九年の時点で領主や百姓の間に王仁を御墓山に埋葬したという伝承があったが、教岸はそれに疑問を投げかける、言い換えれば伝承を否定する「学説」を唱えているのである。したがって津田村には寛文九年の時点で、「御墓山」に王仁を埋葬したという伝承が存在したと考えてよい ? 飯沼雅行、[57]

歴史家金英達(英語: Yondaru Kimu)の伝王仁墓への批判が神戸学生青年センターで講座を開くむくげの会の会報『むくげ通信』で公開されている[64]。……並河誠所(並川五一郎、並河五市郎)が『五畿内志』編纂のために名所旧跡を探訪中、禁野の和田寺で「王仁墳廟来朝紀」という古記録を見つけ(現存しておらず、写本と称するものが伝えられている)、この地を踏査して藤坂村の自然石(オニ塚)に出会い、さしたる根拠もなくこれを王仁の墓であると断定して、地元の領主(久貝因幡守正順)に進言して「博士王仁之墓」と刻んだ墓石を建立させた。…… これは、一学者の願望・思いつき・功名心による歴史の捏造であり、幕府の権威を嵩にかけた強引な碑の建立であった。……  昭和にはいると天皇制国家主義者らの団体による王仁の顕彰運動が起こり、戦時期には「内鮮一体」を標榜する朝鮮人公民化政策に利用される。……戦後になると“善意な”日本人の協力者が登場、歴史の検証なしに韓国人の民族意識をくすぐる“韓日友好親善運動”に利用される。 ? 金英達(英語: Yondaru Kimu)(2000年)、[64]
王仁墳廟来朝記

1616年(元和2年)正月付けで藤坂村御墓谷の王仁墓(於爾之墓)について書かれた禁野村和田寺道俊『王仁墳廟来朝記』『王仁裔孫並系譜紀』が1939年10月10日朝日新聞で報道される[65][66]。和田寺は中世廃寺となり康平年間(1058-1065)和田源秀が堂宇を再建、明治七年七月再び廃寺となり明治十三年再興、明治二十三年渚の観音寺を移築し本堂とした[67]


王仁墳廟来朝紀

夫百濟國博士王仁者漢高帝之後裔有?曰?鸞ト?者、鸞カ之後王狗轉 至?百濟ニ?、當テ?百濟久素王ノ時ニ?我 朝人皇第十六代譽田天皇(應神帝)馭宇十六年乙巳春二月遣?使召ス?文人ヲ?、久素王即チ王狗之孫王仁ヲ来貢焉、則来朝以テ?難波津(仁)咲屋此花冬篭之哥詠ヲ?奉ル?祝?我朝御代萬歳ヲ?、應神天皇 叡感以テ?百濟王仁學士ヲ?則二皇子莵道稚郎子及大鷦鷯王(人皇第十七代仁徳天皇)之爲ス?師ト習フ?諸典籍ヲ?、是本朝之儒風之始祖也、儒學於テ?是(仁)興ル、則我朝學校之権輿也、爲シテ?封戸ト?以テ?大倭國十市縣ヲ?百濟王ノ博士王仁ニ賜フ?食禄ヲ?、今大和國十市郡百濟郷是也、王仁及テ?没ニ河内文ノ首ノ始祖博士百濟墓(與)紀書葬ル?河内國交野縣藤坂村ニ造テ?墓ヲ?、則藤坂村艮(東北)稱ス?字御墓谷ト?、土俗於爾(オニ)之墓ト誤訛ス

一 百濟王仁社
於テ?和泉国大鳥郡ニ?王仁ヲ東原大明神ト尊称ス(在向井之北)、祭神百済王仁相殿素戔烏尊ニ坐也
右以本巻紀書之後世備不朽置所蓋如斯者也
       交野郡五箇郷住侍百済裔孫
        西村大学助俊秋次子
          禁野和田寺住侶
               道俊(花押)
元和二辰年正月 ? 道俊、[55][68][69][70]
当郷旧跡名勝誌に記録された塔石

1682年(天和2年)、古記録や御伽噺が集められた大阪府枚方市旧津田村尊光寺所蔵『当郷旧跡名勝誌』にて、百済王氏の御墓と古老が伝承する字御墓谷の御墓山での王仁の埋葬並びに著者がのちの時代(後代)に立てられたと推定した村にある当時既に古くなっていた王仁の塔石が記されている。この伝承について筆者である教岸は欽明天皇13年(552年)の仏教公伝以前に来朝した王仁による上の堂の建立並びに「みささき」ではなく「御墓」である点を理由に訝しんでいた。御墓谷に類似する小字は河内国交野郡の他の村々にもみられる(例:現交野市森「墓谷」[71]、現枚方市の墓の谷)[72]
   天和二年壬戌記

当郷旧跡名所誌……(※可読性のためカタカナを平仮名に変換)
  御墓山之山
一 札場より十余丁計寅の方に御墓谷と云字あり。古老の伝説には中宮村住居之百済王の御墓と云へり。-(中略)-四十年以前迄は御墓一段高くありけるが、大雨などにくえくづれて、長さ五尺許の焼物の櫃顕れ見へしが、其の内に灰の如くなる者あり。太刀、刀の様成る物ありけれども、朽くさりて手にも取られずとなり。切羽(せっぱ―刀身の本につける金具)帚(はゞき?刀の鍔元をかためる金具)笄(こうがい?刀のさやにはさむ金具)の様なるものは、金にてありければ不?立たと也。見し人の語り也。其辺に土器、天目、花たてのやうなるもの多く在りけりとなん。……
  上の堂の事
一 札場より二丁ばかり寅の方に上の堂の古跡あり。往昔には七堂伽藍作りにて、十三重の石塔二た組ありとなん。本堂は九間四面に転輪聖王の形一丈六尺の土像ありけりとなん。百年以前までありしを見しと老人の云ひ伝へ也。同郡の内中宮村に百済国王と申すが御座して、其所より此所へ一里の間廊下相続きたりとなん。然れども何れの時代とも正説難し?知り。九十余年以前に太閤当国小山城(南河内郡)御取立ての時に、奉行小野木六助と云人、此堂をこぼち用木としまひしより、一宇もなく、くさむらしげり荒果てけり。されども人畜ともに悪敷すればたヽり有り。かヽる霊地の無下に失せ果んことなげかわしとて、御地頭地下人頭梁し、寛文九乙酉歴に郡中令し?奉加?、小庵を結び、釈迦の木仏安置しける也。此奉加帳に人王十六代応神天皇の御宇に、百済国より王仁来朝して中宮村に殿作りし居住ありて、此の上の堂を建立有り。逝去の時石の櫃に納めて土入す。御墓山是なりと云へり。何れの記録より考へたるらん、いぶかし。和漢年代記に応神十六乙巳二月朔日王子王仁来朝すとあり。又王代一覧には百済国より王仁といへる博士、論語等の書物を持来朝す。太子莵道稚子是を師として書を読習ふとあり。天和二年までは千三百七年成也。然ば仏法来朝は欽明十三壬申なれば、天和二迄は千百三十年になるなり。しかれば仏法なき二百六十七年前きなれば御菩提寺とは難し?云ひ。御墓も此時代には、みさヽきと申てなき事也。但し石塔は後代に立てけるや、今に当村に其塔石古き有り?之れ。……如何様日本に珍敷形象也。古老の伝に
 あさ日さす 夕日かヽやくこの堂に
 こかね千両 あるやなし
とよみおきしとて、こヽかしこをほりけれども、金はなかりけりとなり。とかく百済国より代々人質に来り、中宮住居の時の祈願堂なるべし。……
(御墓山)
札場から十余町ばかり寅(東北)の方角に御墓山があるとしるされているが、その場所を地図でもとめると、大体小鹿工場の南東、宮山という辺になる。そのあたりを実地に探査したが、それらしいところを見出し得なかった。ところが昭和三十一年一月藤坂寺島正計氏は赤褐色の陶片数個を発見したが、それは古墳の上にあるべき埴輪(はにわ)円筒の一片と、他は同様家形埴輪の一部であった。その出土地は、藤阪天神山の南端池の附近で、こゝはすでに多くの崖の土を採り去って、黄色の土砂が露出している。その一端には四五尺はなれて両側に二個づゞの石を積んだ石室様の構造がある。勿論その内部には土砂が充満していて、天井石は見えない。大体古墳の玄室の一部のようで、寺島氏はこの上部で前記埴輪類を発見したのである。したがってこゝは明らかに古墳と見られ、地図で見ると津田村内の札場(昔の札場)から直線で約十一町となり、こゝが御墓山としてしるされたものに相当するようである。しかし札場からの方角は文に示されたものとは一致しないが、この文に記された時はすでに古墳が露出し、破壊されてから四十年を経過した後の口伝えであるから少しの誤があるかも知れない。さてこの上に登ってみると、南側は多くの封土を削り取られてようやく残された半円形の山で、北側はしだいに低くなりその裾には浅い濠の跡がみとめられる。南半の封土がないので、その墳形を知る由もないが、前記のように埴輪を立てならべた頃の墳としては、前方後円墳であつたように想像せられる。前の部分は明治三十一年関西鉄道開通の時、線路堤のために取去られたものであろう。 ? 津田村 尊光寺八世教岸,解説:片山長三、[73]藤阪宮山古墳 昭和三十一年頃に土器を探していた時に偶然見付かりました。下新池流れ口の洗い場の山側に花崗岩が少し頭を出していて、この山では見られない石なので掘っていくと、下から次つぎに石が出てきました。それも積んだような形で、内側は平な面が揃っていて、更に掘り進むと奥の正面に一米位の平たい石があり、その端からまた手前へ石積みが続き、結局幅一米位で、長さが五米程の竪穴式の古墳の様でした。中に埋まっている赤土を掘り上げていくと、陶棺の割れたものが多く出てきたので慎重に掘ると鉄製の塊、錆びた小刀、銅の輪、管玉なども出てきました。急ぎ片山先生に連絡すると、現地へ見にこられ、『古墳に間違いない』と云われました。陶棺や周囲に散らかっていた象形埴輪などは今は大阪市立博物館所蔵になり、遺跡は池端の道路拡張工事で跡形もなくなりました。片山先生から『王仁塚は古墳ではないが近くに古墳らしいものは無いか探してくれ』と云われていましたので、『津田史』の中にこの古墳のことは詳しく説明して下さってます。(一三頁、一四頁) ? 寺島正計、[74]……藤坂宮山の南端では、藤坂寺島正計氏によって一古墳を発見せられ、……尊光寺当郷旧跡名勝誌によるとこれに相当するらしい古墳の存在を記している。(この古墳は明治三十一年関西鉄道が敷設させれた時にその土を採って線路堤とせられたので、現在は大部分破壊せられて後方一部が残っているにすぎない。)以上によって知るところは津田北部の古墳時代村落は相当に栄えてその中に一強族があり、それが当時の民衆を使役してこの墳墓を築造したということである。 ? 片山長三、[75]
王仁と百済王氏と三松家

『当郷旧跡名所誌』は王仁の埋葬地は百済王氏の埋葬地でもあるという伝承を記録している。また、王仁は百済王神社所在地の「中宮村ニ殿作リシ居住アリ」という伝承が記録されている。西村天囚は三松氏は百済王氏嫡流と聴き、自著へ掲載する王仁の像を探していると尋ね、三松家伝統の宝物と珍重していたチンヂ様の木像を王仁木像として掲載したという[76]。『日本宋学史』には「「王仁木像 木下順菴旧蔵」」と掲載されている[77]。中山によるとある学者がその木像は王仁ではなく王辰爾と説いたため百済王神社では辰爾王木像の絵端書が販売されたという。中山は「辰爾王の木像が王仁の換え玉」と題して、王仁と辰爾王が入れ替わったと記している[76]。三松家系図では三松家は百済王氏末裔と書かれ、辰爾王も記載されている。


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