王仁
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このように、王族や高句麗、百済の貴族が中国式の姓を導入したのは、三国時代の後半、統一新羅時代である[44]
^ 現在、使われている中国式の姓が一般化したのは、中国から漢字が導入され、定着してきた七世紀以後と考えられている。『三国史記』や『三国遺事』では、高句麗・百済・新羅の始祖伝説にすでに中国式の姓が使われていたように記されているが、実際には神話上の話と解釈されている。高句麗の始祖・朱蒙は国名にちなんで「高朱蒙」と高氏を名乗ったり、百済では扶余族の始祖温祚は扶余氏という姓を名乗ったと伝えられている。新羅の始祖は、一説には、馬のいななきに導かれた先で見つかったヒョウタンのように大きい卵から生まれたという伝説から、ヒョウタン(パク)を意味する「朴」、あかあかと火が燃える様や光が明るく輝く様を営味する「赫」で朴赫居世となった。新羅では四代目の脱解王からは昔氏、一三代目の味鄒王からは金氏に受けつがれ、朴氏、昔氏、金氏となるそれぞれの始祖伝説をもっている。史書によると、三国時代は、始祖伝説に関係する者以外でいわゆる中国式の姓をもっている者はほとんどみられない。六世紀から七世紀に登場する高句麗の武将は「乙支文徳」、『日本書紀』に「伊梨柯須彌」の名で登場する高句麗の権力者は「淵蓋蘇文」、七世紀の百済の軍官は「鬼室福信」に「階伯」である。新羅の始祖の赫居世も別名は「弗矩内」ともいう。実際に、朝鮮半島で姓が生まれたのは、統一新羅時代になってからである。統一新羅の王族、貴族が中国・唐の文化を取り入れるなかで、中国式に姓をもつようになっていったのだ。また、中国の姓をまねただけでなく、自分の住んでいる地名、周囲の山や川にちなんでつけられた名前もあったようだ。そして高麗時代になると、姓をもつことが一般化し、李朝時代には『経国大典』という戸籍台帳ができて、姓名制度が確立した[45]
^ 韓国においても同様で、三国時代から何らかの名称があったが、それは権力者を中心として使われていたと考えられる。高句麗王の「高氏」、百済王の「扶余氏」、新羅の「朴、昔、金氏」などがあるが、これはすべて漢字が齎してからの表記である。日本の『日本書紀』などの資料を見ても、朝鮮半島に7世紀以前には漢字の姓氏は見当たらない。この時姓氏を持つことは、集団の中で政治的、社会的特権であり、姓氏の獲得によって段々母系社会から父系社会に移行して行く117
^ さらに近年では、朝鮮半島が中国風の漢字一文字の姓を名乗るのは、統一新羅の時代以降であるため、王仁は朝鮮人ではなく、中国系渡来人ではないかと考えられてきている[43][注釈 1][注釈 2][注釈 3]
^ 朝鮮半島では7世紀後半になる中国の唐との交流が活発になり、中央貴族や官僚を中心に漢字の姓氏が拡大して行く。…李重煥の『擇里志』には、高麗時代以降徐々に一般の人が姓氏を持つようになったと記している[46]
^ 韓国人の姓氏は、漢字の導入と共に今のような中国式の形が定着したと見られる。その中には韓国独自の姓氏もあるが、多くは中国の姓氏を借用したと考えられる。勿論、中には帰化によって中国伝来の姓氏も見られたり、日本由来の姓氏も見られた。歴史的には、特権階層だけが持っていたこの姓氏が、一般の人にまで広がるのは高麗時代の文宗が実施した科挙の試験が大きく影響する。科挙試験には姓名を持つことが条件であり、試験を受けるために一般の人にまで広がるきっかけとなった。…韓国では各家門に族譜を持っているが、この族譜を見るとその始祖がこの高麗時代よりも遥かに遡る。これは事実性よりも自分達の姓氏の神話化や美化したものと考えられる。一般の人が姓氏を持つようになったのが高麗の文宗の時からだとしたが、この説にも問題があり、一般的ではなく特定の階層に限られる。当時の全体人口からしても科挙試験受験者は僅かだったと考えられる[47]

脚注^ a b 山尾幸久「日本国家の形成」岩波新書、1977年
^ a b 鈴木靖民「王仁の名から6世紀ごろ、中国系百済人が先進文化を携えた博士として百済から倭に渡来した事実を想像させる」朝日日本歴史人物事典『王仁』 - コトバンク
^ a b c 志田諄一日本大百科全書『王仁』 - コトバンク
^ a b 加藤謙吉 (1997年7月). “フミヒト系諸氏の出自について”. 古代文化 49 (財団法人古代学協会): pp. 428. "かかる事実に基づき王仁後裔氏族や家氏、東漢氏を中国系とする説が古くから存在する。" 
^ a b マイペディア「伝承によると、漢の高祖の子孫」マイペディア『王仁』 - コトバンク
^ a b 石田博『漢文学概論』雄山閣、1982年6月1日、28頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4639001652。"王仁の家系を述べているが、それによると、王仁は漢の高帝の後であるという。漢の高帝の後を鸞といい、鸞の後胤の王狗は、転じて百済に至った。"。 
^ a b c 八幡和郎『最終解答 日本古代史 神武東征から邪馬台国、日韓関係の起源まで』PHP研究所PHP文庫〉、2015年2月4日、132頁。ISBN 978-4569762692。https://www.google.co.jp/books/edition/最終解答日本古代史/YKrOSQXkUsUC?hl=ja&gbpv=1&pg=pt132&printsec=frontcover。"そこで、天皇が『お前に勝る学者はいるのか』と聞いたところ王仁を推薦したので、百済から招聘したといいます。王仁博士は、漢の高祖の子孫と称しています。山東省から楽浪郡に移住し、さらに百済に移ったので、平安時代の『新撰姓氏録』には、文、武生、櫻野、来栖、古志といった名字の人々が王仁の子孫で漢族として登録されています」「文字を伝えた王仁博士のような百済から来た漢族をどう評価するかという問題もあります。これは、たとえば、在日朝鮮人で日本国籍がない人がアメリカで活躍したようなときに、日本から来たと思われるか、韓国・朝鮮人だとアメリカ人が思うかといったようなものです。漢字を伝えた王仁博士を日韓友好のシンボルとする動きもありますが、在日韓国人3世がアメリカでキムチを広めたのを日米友好のシンボルにするようなもので、ちょっと変な気がします。"。 八幡和郎『最終解答 日本古代史 神武東征から邪馬台国、日韓関係の起源まで』PHP研究所PHP文庫〉、2015年2月4日、36頁。ISBN 978-4569762692。"始皇帝の子孫という秦氏や漢字を伝えた王仁博士のように、百済を経由して渡来したとしている氏族も含めて、帰化人の多くが『漢』を出自とすると名乗っていたのです。"。 
^ a b 八幡和郎『中国と日本がわかる最強の中国史』扶桑社扶桑社新書〉、2018年9月4日、13頁。ISBN 4594080340。"王仁博士を百済人として日韓友好のシンボルにしたいと韓国の一部の人は考えていろいろ画策しているようですが、百済でも本格的に漢文ができたのは漢族に限られていました。あとで説明するように、山東省にルーツをもつ王仁博士が漢字を日本に伝えたのは、在日朝鮮人がアメリカに行ってキムチの作り方を教えたようなもので、それを日米文化交流とは言わないのと同じく日韓友好のシンボルにはなりません。また、唐が百済を滅ぼすのに荷担した新羅の流れを引く現代の韓国は、百済の継承国家とはいえません。"。 
^ a b 日笠護『日鮮關係の史的考察と其の研究』四海書房、1939年7月15日、40頁。"後漢孝靈帝の後裔と稱する阿知使博士王仁(漢高祖の後裔)の來朝を見るに至つた。"。 
^ a b 駒井和愛『楽浪―漢文化の残像』中央公論社中公新書〉、1972年1月1日、23頁。ISBN 978-4639001652。"東京大学の歴史学者坪井九馬三博士は、かの日本に論語をもたらしたといわれる王仁ももと漢人の子孫で、楽浪から来たって、百済に仕えたもので、楽浪王氏に関係ある。"。 
^ a b 請田正幸 (1988年7月). “渡来人論・序章”. 歴史学研究 (582) (青木書店): pp. 14. "西文氏については、その伝承で、漢の高祖の子孫が朝鮮にわたり、その後裔の王仁が日本に渡来して、西文氏の祖となったとしている。" 
^ a b 馬渕和夫、出雲朝子『国語学史―日本人の言語研究の歴史』笠間書院、1999年1月1日、17頁。
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