祖先が漢の帝室に出自を持つ「鸞王」である点などが、『続日本紀』と対応している。また、孫の名として「阿浪古首」が記されている。 『日本書紀』や『新撰姓氏録』には漢人という記録は存在せず、百済から来たという記録だけ存在するが、百済に渡来した漢人であるとする学者の見解もある[2][4][5][6][9][10][12][13][14][16][11][17][3][7][8][15][18][19][注釈 4][注釈 5][注釈 6][48]。一方、津田左右吉をはじめ実在を疑問視する説も多数ある[49][48][20][21][22][23][24][25][27][28]。山尾幸久は儒教を伝えた実在の王辰爾(王智仁)の功績に基づいて渡来人らが作成した伝承とする[1]。 なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな 古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされる難波津の歌は百人一首には含まれてはいないが、全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、大会の時に一首目に読まれる歌である。歌人の佐佐木信綱が序歌に選定したとされる。なお大会の歌は「今を春べと」に変えて歌われる[50]。 能「難波(古名:難波梅)」では、王仁は「おうにん」と読まれている[51]。 シテ「咲くやこの花と詠じつゝ。位をすゝめ申せし。百濟國(はくさいこく)の王仁(わうにん)なれや。……」[52] 昭和46年近畿民俗会の調査では官軍に追われて亡くなった地という地元の村の伝承が記録されている。<ワニ塚>……村の伝えではワニという人は官軍に追われて長尾の大池の上にあるセメ谷で攻められここに逃げて来て死んだので、ここに墓があるという。<馬塚>藤阪の北にある。博士王仁の乗馬を埋めた所というが、今は畑となっている。 ? 近畿民俗会、枚方の民俗[53]。 大阪府枚方市旧藤坂村の字御墓谷の山中に自然石の碑があり、里人が王仁を訛って「おにの塚」と呼んで畏敬し、歯痛や瘧の治癒を祈願していたという[54]。 1940年菅原村・津田村・氷室村が合併してできた津田町は1955年枚方市へ編入するが、以前枚方市で勤務していた歴史学者の馬部隆弘は、1934年伝王仁墓を菅原村が大阪府へ史跡として申請する際に写筆を提出した『王仁墳廟来朝紀』を椿井文書だと指摘し批判[55]、SNS上で椿井政隆(1770?1837)が生誕する以前に『当郷旧跡名勝誌』(1682)や『八幡宮本紀』(1689)にて王仁墓の伝承が記載されているとの批判を受けそれらは伝承ではなく学説であるとブログ上で反論[56]、歴史学者の飯沼雅行 歴史家金英達
各説
王仁作とされる歌
能・狂言における王仁
遺跡と顕彰運動
大阪枚方大阪府枚方市の伝王仁墓入口石碑
王仁墳廟来朝記
1616年(元和2年)正月付けで藤坂村御墓谷の王仁墓(於爾之墓)について書かれた禁野村和田寺道俊『王仁墳廟来朝記』『王仁裔孫並系譜紀』が1939年10月10日朝日新聞で報道される[65][66]。和田寺は中世廃寺となり康平年間(1058-1065)和田源秀が堂宇を再建、明治七年七月再び廃寺となり明治十三年再興、明治二十三年渚の観音寺を移築し本堂とした[67]。
王仁墳廟来朝紀
夫百濟國博士王仁者漢高帝之後裔有?曰?鸞ト?者、鸞カ之後王狗轉 至?百濟ニ?、當テ?百濟久素王ノ時ニ?我 朝人皇第十六代譽田天皇(應神帝)馭宇十六年乙巳春二月遣?使召ス?文人ヲ?、久素王即チ王狗之孫王仁ヲ来貢焉、則来朝以テ?難波津(仁)咲屋此花冬篭之哥詠ヲ?奉ル?祝?我朝御代萬歳ヲ?、應神天皇 叡感以テ?百濟王仁學士ヲ?則二皇子莵道稚郎子及大鷦鷯王(人皇第十七代仁徳天皇)之爲ス?師ト習フ?諸典籍ヲ?、是本朝之儒風之始祖也、儒學於テ?是(仁)興ル、則我朝學校之権輿也、爲シテ?封戸ト?以テ?大倭國十市縣ヲ?百濟王ノ博士王仁ニ賜フ?食禄ヲ?、今大和國十市郡百濟郷是也、王仁及テ?没ニ河内文ノ首ノ始祖博士百濟墓(與)紀書葬ル?河内國交野縣藤坂村ニ造テ?墓ヲ?、則藤坂村艮(東北)稱ス?字御墓谷ト?、土俗於爾(オニ)之墓ト誤訛ス
一 百濟王仁社
於テ?和泉国大鳥郡ニ?王仁ヲ東原大明神ト尊称ス(在向井之北)、祭神百済王仁相殿素戔烏尊ニ坐也
右以本巻紀書之後世備不朽置所蓋如斯者也
交野郡五箇郷住侍百済裔孫
西村大学助俊秋次子
禁野和田寺住侶