王仁
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至テ? 於後磐余(イハレノ)覆仲天皇稚櫻(ワカザクラ)ノ 朝ニ? 三ノ 韓貢獻(ミツギタテマツルコト) 奕世(ヨヽ)無(ズ) ?絶(タエ)齋藏之傍(カタヘ)ニ更建(タテヽ)内藏(クラ)ヲ? 分收(ヲサム)官物(ミヤケ)ヲ ?仍令メ?阿知ノ使主ト與? 百濟ノ 博士王仁?計サ?其出シ納ルヲ ?始更(サラニ)定?藏部(クラヒトベ) ? 古語拾遺、齋部宿禰廣成[36]応神天皇輕嶋(かるしま)の豊明(とよあきら)の朝(みかど)に至りて、百済(くだら)の王(こにきし)博士(はかせ)王仁(わに)を貢(たてまつ)る。是河内文首(かわちのふみのおびと)の始祖(はじめのおや)なり。秦公(はだのきみ)が祖(おや)弓月(ゆづき)、百二十県民(ももあまりはたちのこほり)を率て帰化(まゐおもぶ)けり。漢直(あやのあたひ)が祖(おや)阿知使主(あちのおみ)、十七県民(とをあまりななつのこほり)を率て来朝(まゐけ)り。秦(はだ)・漢(あや)・百済(くだら)の内附(まゐしたが)へる民、各々(おのもおのも)万(よろづ)を以つて、計(かぞ)ふ。褒賞(ほ)むべきに足る。皆其の祠(やしろ)は有れども、未だ幣例(ぬきたてまつるつら)に預(あづか)らず。

覆仲天皇 後(のち)の磐余(いはれ)の稚櫻(わかざくら)の朝(みかど)に至りて、三韓貢獻(みつのからくにみつきたてまつ)ること、奕世(よよ)絶ゆること無し。齋藏(いみくら)の傍(かたはら)に、更に内藏(うちのくら)を建てて、官物(みやけもの)をおけ収む。仍りて、阿知使主(あちのおみ)と百済主(くだら)の博士王仁(はかせわに)とをして其の出納(あげおろし)を記さしむ。始めて更に藏部(くらひとべ)を定む。 ? 西宮一民(にしみやかずたに)、古語拾遺[37]

とする。
続日本紀

続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが先祖の王仁は高帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。(原文)○戊戌、左大史正六位上文忌寸最弟・播磨少目正八位上武生連真象等言、文忌寸等、元有二二家一。東文称レ直、西文号レ首。相比行レ事、其来遠焉。今、東文挙レ家、既登二宿禰一、西文漏レ恩、猶沈二忌寸一。最弟等、幸逢二明時一、不レ蒙二曲察一、歴レ代之後、申レ理尤レ由。伏望、同賜二栄号一、永貽二孫謀一。有レ勅、責二其本系一。最弟等言、漢高帝之後曰レ鸞。々之後、王狗、転至二百済一。百済久素王時、聖朝遣レ使、徴二召文人一。久素王、即以二狗孫王仁一貢焉。是文・武生等之祖也。於レ是、最弟及真象等八人、賜二姓宿禰一。
(訓読)○戊戌(八日)、左大史(さだいし)正六位上文(ふみ)忌寸最弟(もおと)・播磨(はりまの)少目(せうさうくわん)正八位上武生(たけふ)連真象(まかた)ら言(まう)さく、「文(ふみ)忌寸ら、元(もと)二家有り。東文(やまとのふみ)は直と称(しよう)し、西文(かふちのふみ)は首と号(がう)す。相比(あひなら)びて事(わざ)を行(おこな)ふこと、その来(きた)れること遠(とほ)し。今(いま)、東文(やまとのふみ)は家(いへ)を挙(こぞ)りて既(すで)に宿禰に登(のぼ)り、西文(かふちのふみ)は恩(めぐみ)に漏(も)れて猶(なほ)忌寸に沈(しづ)めり。最弟(もおと)ら幸(さきはひ)に明時(めいじ)に逢(あ)ひて、曲(つばひらか)に察(み)ることを蒙(かがふ)らずは、代(よ)を歴(へ)て後(のち)、理(ことわり)を申(まう)すとも由尤(よしな)からむ。伏(ふ)して望(のぞ)まくは、同(おな)じく栄号(えいがう)を賜はりて永(なが)く孫謀(そんぼう)を貽(のこ)さむことを」とまうす。勅(みことのり)有りて、その本系(もとつすぢ)を責(せ)めしめたまふ。最弟(もおと)ら言(まう)さく、「漢(かん)の高帝(かうてい)の後(のち)を鸞(らん)と曰(い)ふ。鸞(らん)の後(のち)、王狗(わうく)、転(うつ)りて百済(くだら)に至(いた)れり。百済(くだら)の久素王(くそわう)の時(とき)、聖朝(せいでう)、使(つかひ)を遣(つかは)して、文人(ぶんじん)を徴(め)し召(まね)きたまへり。久素王(くそわう)、即(すなは)ち狗(く)が孫(うまご)王仁(わに)を貢(たてまつ)りき。是(これ)、文(ふみ)・武生(たけふ)らが祖(おや)なり」とまうす。是(ここ)に、最弟(もおと)と真象(まかた)ら八人に姓宿禰(すくね)を賜(たま)ふ。 ? 『続日本紀』、巻第四十、桓武天皇 延暦十年(791年)四月戊戌[38]

これに従えば、漢高帝の子孫「鸞」なる人物の子孫の「王狗」が百済に渡来し、その孫の王仁が渡来して文氏、武生氏らの祖先となったことになる。この伝承は後の『新撰姓氏録』の記述にもみえる。

王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡出身の中国人系の学者とされ、百済に渡来した中国人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。
新撰姓氏録

新撰姓氏録』には、「諸藩」の「漢」の区分に王仁の子孫の諸氏に関しての記述がある。文宿禰(左京)に「出漢高皇帝之後鸞王也」、文忌寸(左京)に「文宿禰同祖、宇爾古首之後也」、武生宿禰(左京)に「文宿禰同祖、王仁孫阿浪古首之後也」、櫻野首(左京)に「武生宿禰同祖、阿浪古首之後也」、栗栖首(右京)と古志連(河内国と和泉国)にはそれぞれ「文宿禰同祖、王仁之後也」とある。第三帙

左京諸蕃上 ……
漢。……
文宿禰。 出?自?漢高皇帝之後鸞王 ?也。
文忌寸。 文宿禰同祖。宇爾古首之後也。
武生宿禰。 同祖。王仁孫阿浪古首之後也。
櫻野首。 同?上。……
右京諸蕃下……
漢。……
栗栖首。 文宿禰同祖。王仁之後也。……
河内國諸蕃。……
漢。……
古志連。 文宿禰同祖、王仁之後也。……
和泉國諸蕃。……
漢。……
古志連。 文宿禰同祖、王仁之後也。 ? 新撰姓氏録[39][40][41][42]

祖先が漢の帝室に出自を持つ「鸞王」である点などが、『続日本紀』と対応している。また、孫の名として「阿浪古首」が記されている。
各説

日本書紀』や『新撰姓氏録』には漢人という記録は存在せず、百済から来たという記録だけ存在するが、百済に渡来した漢人であるとする学者の見解もある[2][4][5][6][9][10][12][13][14][16][11][17][3][7][8][15][18][19][注釈 4][注釈 5][注釈 6][48]。一方、津田左右吉をはじめ実在を疑問視する説も多数ある[49][48][20][21][22][23][24][25][27][28]山尾幸久は儒教を伝えた実在の王辰爾(王智仁)の功績に基づいて渡来人らが作成した伝承とする[1]
王仁作とされる歌

なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな

古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされる難波津の歌百人一首には含まれてはいないが、全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、大会の時に一首目に読まれる歌である。歌人の佐佐木信綱が序歌に選定したとされる。なお大会の歌は「今を春べと」に変えて歌われる[50]
能・狂言における王仁

能「難波(古名:難波梅)」では、王仁は「おうにん」と読まれている[51]


シテ「咲くやこの花と詠じつゝ。位をすゝめ申せし。百濟國(はくさいこく)の王仁(わうにん)なれや。……」[52]

遺跡と顕彰運動
大阪枚方大阪府枚方市の伝王仁墓入口石碑

昭和46年近畿民俗会の調査では官軍に追われて亡くなった地という地元の村の伝承が記録されている。<ワニ塚>……村の伝えではワニという人は官軍に追われて長尾の大池の上にあるセメ谷で攻められここに逃げて来て死んだので、ここに墓があるという。<馬塚>藤阪の北にある。博士王仁の乗馬を埋めた所というが、今は畑となっている。 ? 近畿民俗会、枚方の民俗[53]

大阪府枚方市旧藤坂村の字御墓谷の山中に自然石の碑があり、里人が王仁を訛って「おにの塚」と呼んで畏敬し、歯痛や瘧の治癒を祈願していたという[54]

1940年菅原村津田村氷室村が合併してできた津田町は1955年枚方市へ編入するが、以前枚方市で勤務していた歴史学者の馬部隆弘は、1934年伝王仁墓を菅原村が大阪府へ史跡として申請する際に写筆を提出した『王仁墳廟来朝紀』を椿井文書だと指摘し批判[55]、SNS上で椿井政隆(1770?1837)が生誕する以前に『当郷旧跡名勝誌』(1682)や『八幡宮本紀』(1689)にて王仁墓の伝承が記載されているとの批判を受けそれらは伝承ではなく学説であるとブログ上で反論[56]、歴史学者の飯沼雅行はその馬部のブログに対して『当郷旧跡名勝誌』の記載は学説ではなく伝承であると批判している[57]


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